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江蘇省から見た張家港市
1980年代の江蘇南部経済の特徴として郷鎮企業が勃興し経済の急速な発展が見られたが、鄧小平の唱える経済改革で注目された地域は南部海岸の広東省であり、その経済水準は急速に江蘇省を超えていった。1990年代初めになると上海を中心とした長江デルタ地帯の経済的優位が重視され、上海と緊密な関係がある江蘇南部の蘇州と無錫の経済発展が実現、省内GNPは省会南京を超える数値を記録している。またこの時期は外国資本が大量に蘇州南部に流入し、民営企業と蘇州と無錫の管轄県の経済を支えたが、江蘇地区の南北地区の経済格差の拡大が発生している。その経済発展の結果、蘇州5県市(張家港市、常熟市、太倉市、昆山市、呉江市)、無錫の江陰市、常州の武進区は、全国の県で上位10にランクインされている。これにより蘇州市区の経済総合力は江蘇省内随一となっている。また現在の蘇州市区の経済規模に関しても工業成長額および一般予算地方財政収入はすでに南京に迫る規模となっている(江蘇統計年鑑2006参照)。(江蘇省 フレッシュアイペディアより)
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江蘇省から見た越
周代、江蘇南部に呉が建国され、東周の諸侯国に列せられた。呉国は徐々に長江下流の有力な勢力となり、長江を越え諸文化を有する村落を併合、諸氏は次第に呉人に融合していった。呉の勢力拡大に伴い、西部では楚と、東部では越と衝突をした。そのため呉は晋との友好関係を構築し楚越同盟に対抗した。春秋末期、呉は国王闔閭の時代に最盛期を迎え、都城を姑蘇(現蘇州)に遷し、前484年には山東省に位置した北方の強国であった斉を打ち破るなどの勢力拡大を実現したが、前473年に越により滅亡し、その勢力下におかれるとそれ以降100年間程度の期間呉人は越人に次第に融合し、呉越両文化の融合が見られた。前333年、越は西方より楚による攻撃を受け、旧呉領域などの北部地域を喪失、江蘇は楚の版図に含まれることとなった。最終的に秦が前221年に中国統一事業を統一すると江蘇も秦の版図に含まれた。(江蘇省 フレッシュアイペディアより)
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江蘇省から見た漕運
1421年、永楽帝が北京遷都を実施すると、南北両京(北京・南京)および両直隷はその後200年にわたり並存することとなった。蘇州地区では紡績業が発達したことから明代の経済的中心地となり、工業化と都市化の先進地域として大小市鎮(都市)が広く分布し、地価は高く、各種の税賦が設置されていた。また揚州と淮安地区も北京に糧食を運送する京杭大運河の漕運と専売化されていた塩取引の中心地であり、中国長江以北の商業中心地の一つとして発展していた。経済的繁栄を実現すると同時に国内随一の文化地域となり、中国文化に大きな影響を与えている。例えば、状元(科挙の最高試験殿試に最高成績で合格した者)となった人数は長期にわたり大きな比重を占めていた(清代の数字では全省の40%、蘇州府の20%)。(江蘇省 フレッシュアイペディアより)
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江蘇省から見た両江総督
清代には、江蘇巡撫が蘇州、安徽巡撫が安慶に駐在し、南京には江蘇、安徽、江西の三省を司る両江総督が置かれた。江蘇、安徽両省の郷試は、始終、共に同じ江南貢院(南京在地)が用いられた。1780年以前、安徽の民政を管理する安徽布政使も南京に駐在し、1780年の安徽布政使の安慶への移動以後、南京には別に江寧布政使一職が設けられ、江寧(南京)、揚州、淮安、徐州の四府と、通州、海州の二直属州を管理した。江蘇学政は江陽に在した。それ以外は淮安の府都には漕運総督、府都西北15kmの所の清江浦(現淮安市中心区)には南河総督(江南河道総督)が駐在した。両者の塩運使は揚州に駐在した。(江蘇省 フレッシュアイペディアより)