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伴成益から見た法隆寺
しかし、承和12年(845年)に法隆寺の僧侶・善愷が同寺の壇越である少納言・登美直名を告訴し、弁官による審理の結果直名を遠流とした訴訟事件が発生する。その訴訟の取り扱いを巡って、翌承和13年(846年)に右少弁・伴善男と左大史・伴良田宗がこの訴訟の審理を行った5名の弁官を弾劾した。具体的な成益の罪状としては、善愷が提出した訴状を僧綱・治部省を経由せずに弁官が直接受理したが、これは慣例ではあったものの本来手続違反であり、その後に出た当該の慣例は不適切であるとした上官の判断を成益は敢えて無視し、訴状を本来の正しい部署(僧綱)へ移送しなかった事があげられている。結局この弾劾は認められ、成益は他の弁官とともに私罪にあたるとして解官の上贖銅10斤を課された(善愷訴訟事件)。承和14年(847年)には弾劾された4人の元弁官とともに位記を1階分破毀され、翌嘉祥元年12月(849年1月)にはさらに位階を1等降格した上で従五位上に再叙された。(伴成益 フレッシュアイペディアより)
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正躬王から見た法隆寺
承和12年(845年)法隆寺の僧侶・善愷が少納言・登美直名に不正があると訴えた。裁判を扱う弁官は左大弁・正躬王以下6人で右少弁・伴善男も含まれていた。正躬王ら5人の弁官はこの訴状を受理したが、伴善男が僧侶が法体のまま訴訟を起こす事は僧尼令に違反しており、訴状を受理することは違法であると反対した。正躬王ら5人の弁官は僧尼令の該当する条項が過去において実際に適用された事がないことを理由に審理をはじめようとするが、善男は違法の訴えを許したと正躬王らを告発した。法理論争となり、明法博士・讃岐永直らが訴状を鑑定して裁定することになり、結果訴状の受理は違法とされた。翌承和13年(846年)正躬王は贖銅10斤を課された上に、他の4人の弁官とともに解官され、さらに承和14年(847年)位記を破毀された(善愷訴訟事件)。(正躬王 フレッシュアイペディアより)
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宿曜道から見た法隆寺
そのために、空海・円仁・円珍らが『宿曜経』を日本に請来し、仁観が深く研究した。957年(天徳元年)、日延が呉越より符天暦を持ち帰ったことによりその研究が盛んになり、法蔵が応和元年(963年)に時の村上天皇の御本命供の期日を巡って陰陽道の賀茂保憲と論争を行っており、この時期に日本の宿曜道が確立したと見られている。なお、『二中歴』では法蔵をもって日本の宿曜道の祖としている。こうした経緯から宿曜師は密教僧である例が多く、誕生月日などを元にして星占いを行ってその結果を記した「宿曜勘文」を作成したり、長徳元年(995年)には、興福寺の仁宗に対して暦道と共同で暦を作成するようにという「造暦宣旨」が下されている(興福寺は法相宗であるが、この時代には真言宗との関係も強かったとされる)。ただし、長暦2年(1038年)に暦道と宿曜道との全面対立により宿曜道側が造暦から撤退しているが、以後も日食・月食の発生日時や大月・小月や閏月を巡って暦道と激しく争った。また、宿曜勘文などや星供・祭供などの祈祷の奉仕を通じて権力者と結びついて、法隆寺や西大寺などの別当に任命される者もいた。平安時代後期には能算・明算父子が活躍して白河天皇や摂関家に仕え、続く平安時代末期には天台宗の流れを汲む珍賀と興福寺及び真言宗の流れを汲む慶算という2名の優れた宿曜師が出現して互いに技術を磨きながら権力者と連携して勢力を争い、一族・門人によって流派が形成される程であった。だが、南北朝時代以後の貴族社会の衰退とともに宿曜道も没落の道を辿り、長寛3年(1165年)に珍賀が創建して宿曜道の拠点となった北斗降臨院が応永24年(1417年)に焼失すると、以後歴史から姿を消すこととなる。(宿曜道 フレッシュアイペディアより)