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  • 天寿国繍帳

    天寿国繍帳から見た法隆寺法隆寺

    この繍帳はいつの頃からか所在不明になっていたが、古記録によれば、鎌倉時代の文永11年(1274年)、中宮寺の中興の祖とも称される尼僧・信如により、法隆寺の蔵から再発見された。信如は、日本仏教における戒律の復興者として知られる貞慶の弟子・璋円の娘とされ、中世に荒廃していた中宮寺の再興に尽力した。信如による天寿国繍帳再発見については、建治元年(1275年)定円が著した『太子曼荼羅講式』、室町時代の『聖誉鈔』(しょうよしょう)などに次のように記されている。信如は、中宮寺の復興を志していたが、寺の開基である間人皇后の命日がわからず、それを何とかして知りたいと思っていた。そうしたところ、文永10年(1273年)のある日、信如は夢告により、間人皇后の命日は、法隆寺の蔵にある曼荼羅に書かれていることを知った。法隆寺の蔵の中を捜す機会はすぐには訪れなかったが、翌文永11年(1274年)、法隆寺綱封蔵(ごうふうぞう)に盗人が入り、蔵の中を改めた際に、件の曼荼羅を発見。そこに刺繍された銘文を解読した結果、信如は間人皇后の命日は12月21日であると知ることができた。そして、この太子ゆかりの曼荼羅と同じ図柄の模本を新たに作らせ、建治元年(1275年)に開眼供養を実施。原本、模本ともに中宮寺の寺宝となったという。天寿国繍帳 フレッシュアイペディアより)

  • 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘

    法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘から見た法隆寺法隆寺

    法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘(ほうりゅうじ こんどう しゃかさんぞんぞう こうはいめい)は、奈良県斑鳩町の法隆寺金堂に安置される釈迦三尊像の光背裏面に刻された銘文である。法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘 フレッシュアイペディアより)

  • 仏舎利

    仏舎利から見た法隆寺法隆寺

    飛鳥時代には法興寺、斑鳩寺(現在の法隆寺)、現在の四天王寺など、立派な仏塔を備えた寺院が建立されているが、これらの仏塔は仏舎利を祭るものである。仏舎利 フレッシュアイペディアより)

  • 下野国

    下野国から見た法隆寺法隆寺

    下野薬師寺は奈良時代初期に天武天皇が建立した官寺であり、当時の七大寺に数えられた寺院のひとつである。・良時代天平期に定められた諸寺墾田地限では下野薬師寺の墾田は500町とされ、奈良の大和国分金光明寺・元興寺・大安寺・薬師寺、興福寺・法華寺・弘福寺・法隆寺・新薬師寺・建興寺、河内の四天王寺、近江の崇福寺、筑紫の観世音寺と並び、中央政庁に管理されていた。また平安時代中期の874年(貞観16年)、平安京紫宸殿で60人の僧により3日にわたって行われた大般若経の転読会に際しては、金字仁王経71部が五畿七道各国に一部ずつ配置されるなか、大宰府観世音寺、豊前国弥勒寺とならび下野薬師寺にもそのうちの一部が配置されるなど、平安時代においても当寺が鎮護国家政策の一環として官寺の位置付けにあったことが覗われる。下野国 フレッシュアイペディアより)

  • 大山誠一

    大山誠一から見た法隆寺法隆寺

    大山は、飛鳥期にたぶん斑鳩宮に住み、斑鳩寺(法隆寺)も建てたであろう有力王族、厩戸王の実在は否定していないが、推古天皇の皇太子かつ摂政だった聖徳太子の実在については否定している。大山誠一 フレッシュアイペディアより)

  • 細谷而楽

    細谷而楽から見た法隆寺法隆寺

    昭和9年(1934年)、法隆寺に用があり通っていた細谷而楽は、食堂(じきどう)に近世の間に合わせの修理で張りぼての菰をかぶったような仏像があるのに気がついた。土とも木とも分からない、高さ七尺程の腰以下のやたら太い不恰好この上もない作品であるが、欠けた部分を少しめくると中に別の何かがあるように見える。さては何か古像ではないかと次々と上皮を剥がすと、文字通り「化けの皮」が見事に剥がれ中から気品高い天平彫刻が出現した。一年余の修理のうえ天平塑像の傑作・吉祥天像を修復することとなる。?昭和11年(1936年)には重要文化財(当時の旧国宝)に指定。現在は法隆寺大宝蔵院に安置されている。細谷而楽 フレッシュアイペディアより)

  • 中宮寺

    中宮寺から見た法隆寺法隆寺

    中宮寺(ちゅうぐうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺に隣接する、聖徳太子ゆかりの寺院である。宗派は聖徳宗に属す。山号を法興山と称し、本尊は如意輪観音、開基(創立者)は聖徳太子または間人皇后とされている。中宮寺 フレッシュアイペディアより)

  • 梅原猛

    梅原猛から見た法隆寺法隆寺

    法隆寺に建立に関する独特の解釈。『隠された十字架-法隆寺論』(1972年)で展開。法隆寺を聖徳太子一族の霊を封じ込め鎮めるための寺院とする説。その中から、大胆な仮説を刊行して毎日出版文化賞を受賞している。梅原猛 フレッシュアイペディアより)

  • 興福寺の仏像

    興福寺の仏像から見た法隆寺法隆寺

    旧山田寺講堂本尊薬師如来像の頭部である。『上宮聖徳法王帝説』裏書の記述により、この像は天武天皇7年(678年)に造像が開始され、同天皇14年(685年)に完成したことがわかる。治承の兵火の7年後の文治3年(1187年)、興福寺の僧兵は飛鳥山田寺の薬師三尊像を略奪して興福寺東金堂の本尊に据えた。その後、応永18年(1411年)の東金堂の火災の際には薬師如来像を運び出すことができず、かろうじて頭部のみが焼け残った。この焼け残った頭部は、新しく造られた本尊像の台座内部に納められ、20世紀に至るまでその存在は知られていなかった。台座内から仏頭が再発見されたのは1937年10月30日のことである。頭部のみの残欠ではあるが、造像の年代と事情が判明する、7世紀の基準作として貴重である。現存する仏頭は頭頂部と左の耳朶(じだ)を欠失し、後頭部は大きく陥没している。鍍金は痕跡をとどめるのみで剥落している。上瞼の線を弓形に、下瞼をほぼ直線に表した両眼の形は、法隆寺金堂本尊などの止利派の像の杏仁形(アーモンド形)の眼の表現とは異なり、隋から初唐の仏像様式の影響を示している。興福寺の仏像 フレッシュアイペディアより)

  • 法隆寺地域の仏教建造物

    法隆寺地域の仏教建造物から見た法隆寺法隆寺

    法隆寺地域の仏教建造物(ほうりゅうじちいきのぶっきょうけんぞうぶつ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺および法起寺の建造物から構成されるユネスコの世界遺産(文化遺産)である。法隆寺地域の仏教建造物 フレッシュアイペディアより)

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