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法隆寺から見た県犬養三千代
切妻造、本瓦葺き、桁行七間、梁間四間。内部は床を張り、天井を張らない化粧屋根裏とする。橘夫人(伝承では県犬養橘三千代(藤原不比等夫人、光明皇后母)とされるが、現在では聖武天皇夫人・橘古奈可智とする説が有力)の住居を移転して仏堂に改めたものとされ、奈良時代の住宅遺構としても貴重である。昭和大修理時の調査の結果、この堂は他所から移築され改造された建物で、前身建築は住居であったとみられる。堂内には多数の仏像を安置するが、通常は公開していない。内陣は中の間、東の間、西の間に分かれ、それぞれ乾漆造阿弥陀三尊像(奈良時代、重文)が安置される。他に梵天・帝釈天立像、四天王立像、薬師如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒仏坐像、阿弥陀如来坐像(各木造、平安時代、重文)を安置する。(法隆寺 フレッシュアイペディアより)
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法隆寺から見た武澤秀一
とはいえ、本書が与えた影響は大きなものがあり、山岸涼子は本書に直接のインスピレーションを得て『日出処の天子』を発表したという。また建築家の武澤秀一は、中門の中心にある柱が怨霊封じのためであるという梅原の説は退けつつも、梅原の問題提起を高く評価し、イーフー・トゥアンなど現象学的空間論を援用しながら、法隆寺西院伽藍の空間設計が、それ以前の四天王寺様式が持つ圧迫感を和らげるために考案されたものであり、先行する百済大寺(武澤は吉備池廃寺を百済大寺に比定して論を展開している)や川原寺で試みられた「四天王寺様式を横にした」空間構築の完成形であったのではないかと論じている。(法隆寺 フレッシュアイペディアより)
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法隆寺から見たイーフー・トゥアン
とはいえ、本書が与えた影響は大きなものがあり、山岸涼子は本書に直接のインスピレーションを得て『日出処の天子』を発表したという。また建築家の武澤秀一は、中門の中心にある柱が怨霊封じのためであるという梅原の説は退けつつも、梅原の問題提起を高く評価し、イーフー・トゥアンなど現象学的空間論を援用しながら、法隆寺西院伽藍の空間設計が、それ以前の四天王寺様式が持つ圧迫感を和らげるために考案されたものであり、先行する百済大寺(武澤は吉備池廃寺を百済大寺に比定して論を展開している)や川原寺で試みられた「四天王寺様式を横にした」空間構築の完成形であったのではないかと論じている。(法隆寺 フレッシュアイペディアより)
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法隆寺から見たデジタルカメラ
2004年(平成16年)、奈良文化財研究所は、仏像が安置されている現在の金堂の屋根裏に使われている木材の年輪を高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影した。その画像から割り出した結果、建立した年年輪年代測定を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることがあらためて裏付けられた。問題は、金堂の部材が年輪年代からみて650年代末から669年までの間の伐採で、日本書紀の伝える法隆寺炎上の年である670年よりも前の伐採と見られることである。伐採年が日本書紀における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性をも示唆するものであるが、これについては、若草伽藍と現在の伽藍の敷地があまり重なり合っていないことから、現在の伽藍は若草伽藍が存在している時期に建設が開始されたのではないかと考える研究者も存在する。(法隆寺 フレッシュアイペディアより)
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法隆寺から見た北畠治房
昭和期になると、関野貞、足立康らが「二寺説」あるいは「新非再建論」と呼ばれる新説を唱える。関野は従来の自説を改め、「二寺説」を発表した。法隆寺の境内、現・西院伽藍の南東に位置する空地には「若草伽藍跡」あるいは「若草寺跡」と呼ばれる場所があり、塔跡の古い礎石が残されていた。関野は、用明天皇のために造られた薬師如来を本尊とする伽藍(西院伽藍)と、聖徳太子のために造られた釈迦如来を本尊とする伽藍(若草伽藍)とは別の寺であり、670年に焼けたのは後者であるとした。二寺説は、古くは北畠治房(法隆寺村出身のもと天誅組志士)という人物が唱えていたが、論文として公刊されたものでなかったため、一般には知られていなかった。足立康の「新非再建論」(1939年)は、用明天皇のために造られた薬師如来を本尊とする仮称「用明寺」と、聖徳太子のために造られた釈迦如来を本尊とする釈迦如来を安置する仮称「太子寺」とがあり、670年に焼けたのは前者であるとする。後に足立は、2つの寺院が対立していたのではなく、一つの法隆寺の中に釈迦像を祀る「釈迦堂」があって、その後身が現・西院伽藍であるとした。(法隆寺 フレッシュアイペディアより)