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法隆寺から見た法相宗
1934年(昭和9年)から「昭和の大修理」が開始され、金堂、五重塔をはじめとする諸堂宇の修理が行われた。「昭和の大修理」は第二次世界大戦を挿んで半世紀あまり続き、1985年(昭和60年)に至ってようやく完成記念法要が行われた。この間、1949年(昭和24年)には修理解体中の金堂において火災が発生し、金堂初層内部の柱と壁画を焼損した。このことがきっかけとなって、文化財保護法が制定されたことはよく知られる。昭和の大修理の際に裏山に築堤(ちくてい)して貯水池を建設、そこから境内に地下配管して自然水利による消火栓を建設した。1949年(昭和24年)金堂火災の際、初期消火に活用された。1950年(昭和25年)に法相宗から独立した。(法隆寺 フレッシュアイペディアより)
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法隆寺から見た富貴寺 (磯城郡川西町)
西院から東院へ向かう道筋の南側、築地塀の内側にひっそりと建つ。もとは奈良県川西町の富貴寺にあり、荒れ果てていたのを、細川護立(侯爵、美術史家)が引き取り保存していたが、後、法隆寺へ寄進。平安時代の三重塔の初層のみが残ったものと思われる。(法隆寺 フレッシュアイペディアより)
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法隆寺から見た法華義疏
法隆寺は、1878年(明治11年)貴重な寺宝300件余を皇室に献納し、一万円を下賜された。この皇室の援助で7世紀以来の伽藍や堂宇が維持されることとなった。皇室に献納された宝物は、一時的に正倉院に移されたのち、1882年(明治15年)に帝室博物館に「法隆寺献納御物」(皇室所蔵品)として収蔵された。戦後、宮内省所管の東京帝室博物館が国立博物館となった際に、法隆寺に返還された4点と宮中に残された10点の宝物を除き、全てが国立博物館蔵となった。さらにその後、宮中に残された宝物の一部が国に譲られ、これら約320件近くの宝物は、現在東京国立博物館法隆寺宝物館に保存されている。(有名な『聖徳太子及び二王子像』や『法華義疏』などは現在も皇室が所有する御物である)(法隆寺 フレッシュアイペディアより)
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法隆寺から見た梵天
切妻造、本瓦葺き、桁行七間、梁間四間。内部は床を張り、天井を張らない化粧屋根裏とする。橘夫人(伝承では県犬養橘三千代(藤原不比等夫人、光明皇后母)とされるが、現在では聖武天皇夫人・橘古奈可智とする説が有力)の住居を移転して仏堂に改めたものとされ、奈良時代の住宅遺構としても貴重である。昭和大修理時の調査の結果、この堂は他所から移築され改造された建物で、前身建築は住居であったとみられる。堂内には多数の仏像を安置するが、通常は公開していない。内陣は中の間、東の間、西の間に分かれ、それぞれ乾漆造阿弥陀三尊像(奈良時代、重文)が安置される。他に梵天・帝釈天立像、四天王立像、薬師如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒仏坐像、阿弥陀如来坐像(各木造、平安時代、重文)を安置する。(法隆寺 フレッシュアイペディアより)
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法隆寺から見た四十八体仏
また梅原は救世観音の光背が「直接、太い大きな釘で仏像の頭の真後ろにうちつけられている」としたうえで、「釘をうつのは呪詛の行為であり、殺意の表現なのである」とした。実際は、救世観音の後頭部にあるのは「太い釘」ではなく、単なる光背取り付け用の金具である。このように、仏像の後頭部に設けた金具や枘によって光背を固定している例は、法隆寺金堂四天王像、法隆寺献納宝物の四十八体仏(東京国立博物館蔵)などに例がみられ、「呪詛の行為」等の解釈は当たらない。このように、梅原の『隠された十字架』の所説は基本的な事実誤認に基づいて推論を重ねている部分が多いため、美術史家からは厳しい評価を受けており、ほとんどの美術史家はあえて正面から反論しなかった。(法隆寺 フレッシュアイペディアより)