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尹良親王から見た遠江国
遠江井伊谷の館で生まれる。まず上野に移ったが、天授5年/康暦元年(1379年)吉野に参候し、親王宣下を受けて二品に叙される。後に兵部卿を経て、元中3年/至徳3年(1386年)8月8日源姓を賜わって臣籍に下り、同時に正二位権中納言に叙任され、左大将・征夷大将軍を兼ねた。元中9年/明徳3年(1392年)南北朝合一後はなお吉野に隠れ留まるも、応永4年(1397年)2月伊勢を発して駿河宇津野(静岡県富士宮市)へ移り、田貫左京亮の家に入った。同5年(1398年)春に宇津野を出て上野へ向かうが、鎌倉の軍勢から攻められたために柏坂(迦葉坂か)でこれを防戦する。武田信長の館に入って逗留した後、8月上野寺尾城(群馬県高崎市)に赴いた。同10年(1403年)頼みとしていた新田義隆(義則か)が底倉で害されると、世良田有親らに従って下野落合城(栃木県上三川町)に移り、次いで桃井満昌・堀田正重など旧功の士100余騎を率い、高崎・安中・碓氷の敵を討って信濃入りし、島崎城(長野県岡谷市)の千野頼憲を頼って再興の機会を窺った。同31年(1424年)8月三河足助へ向かおうとし、諏訪を発して伊那路に差し掛かった折、待ち受けていた賊徒飯田太郎・駒場小次郎が行く手を阻んだため、浪合にて大いにこれと戦う(浪合合戦)。味方は80余騎であったが、結局世良田義秋・羽河景庸・熊谷直近ら以下25人が討たれ、最期を悟った尹良は子の良王君を武士に託した後、大河原の民家に入って自害した。(尹良親王 フレッシュアイペディアより)