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林義郎から見た浜田幸一
1969年(昭和44年)に通産省を退官。同年末の第32回衆議院議員総選挙に自民党公認で周東英雄の後継者として旧山口1区から立候補し、初当選した(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・中山正暉・浜田幸一など)。以後連続11回当選。自民党では佐藤派→田中派に所属。経済企画政務次官、大蔵政務次官、自民党経理局長などを経て1982年(昭和57年)第1次中曽根内閣の厚生大臣として入閣する。林は、国際金融政策を中心に自民党内有数の政策通として知られていた。一方で、通産官僚出身ということもあって、田中派内の竹下登、金丸信ら党人派の実力者とは一線を画した。宮澤喜一が派閥横断的に組織した政策集団「平河会」では事務局長を務め、宮澤の良き理解者となる。田中派分裂に際しては、竹下、金丸らとは行動を共にせず、二階堂グループに参加している。(林義郎 フレッシュアイペディアより)
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高鳥修から見た浜田幸一
1967年(昭和42年)第31回衆議院議員総選挙に田中彰治の後継者として旧新潟4区から立候補する。このときは4万4770票を獲得するも次点で落選した。浪人となった高鳥は田中角栄の秘書として田中事務所に勤務する。1969年(昭和44年)第32回衆議院議員総選挙に立候補し6万2442票を獲得し2位当選する。以後当選回数11回(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・林義郎・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・中山正暉・浜田幸一など)。以降、大蔵政務次官、法務委員長、地方行政委員長などを歴任し、1987年(昭和62年)竹下内閣の総務庁長官として初入閣。(高鳥修 フレッシュアイペディアより)
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予算委員会から見た浜田幸一
宮本顕治は「人殺し」事件:1988年(昭和63年)2月6日の衆議院予算委員会での質疑で、日本共産党議員の正森成二に「過激派の泳がせ政策」を肯定する自由民主党本部放火襲撃事件直後の発言を引用された浜田幸一委員長が、その発言を認めたうえで「我が党は旧来より、終戦直後より、殺人者である宮本顕治君を国政の中に参加せしめるような状況をつくり出したときから、日本共産党に対しては最大の懸念を持ち、最大の闘争理念を持ってまいりました」と主張。更に浜田とのやり取りを打ち切って大蔵大臣である宮澤喜一への為替介入に係る質問をしていた正森を突如遮り「昭和8年12月24日、宮本顕治ほか数名により、当時の財政部長小畑達夫を股間に……」「針金で絞め、リンチで殺した。このことだけは的確に申し上げておきますからね。いいですね。」「私が言っているのは、ミヤザワケンジ君が人を殺したと言っただけじゃないですか。」等と不穏当発言を始め、委員会は大荒れとなった(参照:日本共産党査問リンチ事件)。浜田はこの件で委員長を辞任した。(予算委員会 フレッシュアイペディアより)
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