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浜田幸一から見た安倍晋太郎
過去の経歴や、その口の悪さのために、知名度が高く政治家歴が長かったものの、国務大臣に就くことはなかった。四十日抗争の後に、大平正芳から入閣を打診され、一度は受諾し、閣僚認証式に着ていくための礼服とエナメルの革靴も準備していた。そのことを田中角栄に報告すると「そんなつまらないのやらずに内閣官房副長官をやれ。官房長官が死んだら格上げで内閣官房長官になれるぞ」と言われたため、田中が手配してくれるものと思って、先の閣僚ポストを断った。しかし田中は手配してくれておらず、浜田は閣僚ポストを逃すことになった。また安倍晋太郎からは「浜ちゃんを使えるのは俺しかいないから」「自分が首相になったら、国務大臣に登用する」と言われていたが、結局安倍は内閣総理大臣の地位を目前にして、この世を去ることになった。ただし浜田本人は「自分を使いこなせる総理大臣がなかなかいなかった」「もし大臣になっていたら、自民党はもっと早く潰れていただろう」と語っている。(浜田幸一 フレッシュアイペディアより)
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浜田幸一から見た笹川良一
児玉邸に2、3年住み込み下働きを務め、その後約10年間小佐野の経営する国際興業で不動産取引の勉強をした。児玉とかつて所属していた組に援助され、富津町議会議員から千葉県議会議員になった。公費では運転手は付かないため、そのあいだ浜田は移動用の車と運転手の面倒をみてもらった。この運転手が後のバーニングプロダクション社長・周防郁雄である。1969年(昭和44年)に衆議院議員選挙に挑戦して初当選した。国会議員になってからは児玉と小佐野賢治に加え笹川良一や町井久之が後援者に加わったとされる。に「あいつはヤクザじゃないか」と罵られた時、「自分は確かに、かつて一時期そういう時代もあった。それを否定しない。その過去を責められたら素直に認める。しかし、それをもって私の存在自体を否定したり、また再びチャレンジ(=再チャレンジ)できないような社会をつくってはいけない」と述べている。(浜田幸一 フレッシュアイペディアより)
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