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浜田幸一から見た中山正暉
元々青嵐会は、田中角栄内閣による中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国との間の所謂「日中国交正常化」に伴う、同国と対立している中華民国との国交断絶に反発した若手議員による政策集団、という色彩が濃厚であったが、浜田はその中でも特に強硬な親中華民国、反中華人民共和国派議員であった。後の福田赳夫内閣における日中平和友好条約承認審議を巡って、青嵐会の取った抵抗は本会議の欠席であった。しかし浜田と中山正暉だけはあえて出席し、反対票を投じている。この時浜田は「青嵐会が中華民国に対して、信義を重んじる世界の人々に対して、公約を実行できなかったことを顔向けできないことだと思っている」と語った。(浜田幸一 フレッシュアイペディアより)
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浜田幸一から見た正森成二
1988年(昭和63年)の通常国会で衆議院予算委員長に就任。2月6日、予算委員会で質疑に立った日本共産党の正森成二議員が、「過激派への政府の対応は、泳がせ政策ではないか」との趣旨の発言をし、竹下登首相が「泳がせ政策などをとったことはない」と答弁した。これに対し正森が、自由民主党本部放火襲撃事件後にワイドショーで当時同委員会委員長だった浜田が述べた発言(参照:)を引用したところ、浜田はその発言を認めたうえで「我が党は旧来より、終戦直後より、殺人者である宮本顕治君を国政の中に参加せしめるような状況をつくり出したときから、日本共産党に対しては最大の懸念を持ち、最大の闘争理念を持ってまいりました」と主張した。正森は激昂したが、浜田が正森の言う「泳がせ政策」発言を肯定したこともあり、正森は浜田とのやり取りを打ち切り、他の質問に移った。(浜田幸一 フレッシュアイペディアより)
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