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浜田省吾から見た浅田美代子
1975年5月1日に愛奴としてアルバム『愛奴』とシングル「二人の夏」でレコード・デビュー。当時、CBSソニーでは同社始まって以来の大プロモーションを行い、浅田美代子の「赤い風船」(売上80万枚)を上回る100万枚以上のセールスを見込んでいたというが、実際には全く売れず惨敗という結果であった。また「二人の夏」はウェストコースト風のサウンドだったのだが、メンバーそれぞれの音楽志向がバラバラで愛奴にはスタイルが無く、バンド内での自分の存在や、シンガーソングライターへの憧れもあり、同年9月に愛奴を脱退。愛奴の全シングルA面は浜田が手掛けており、当時からソングライティングの意欲や素質を備えていた。愛奴脱退後は音楽活動を続けながらウェイターなどのアルバイトもしていた。ぼんやりと就職雑誌を眺めることもあったという。(浜田省吾 フレッシュアイペディアより)
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浜田省吾から見た三浦友和
1979年のスマッシュ・ヒット「風を感じて」は、CMソングということで、どこか引っかかる部分があり、長くコンサートで歌わなかったが、実は、ソロになってからCMソングでヒットを出してコンサートツアーをしたい、と色んなCMのオーディションを受けている。しかし1977年、山口百恵と三浦友和の『グリコ アーモンドチョコレート』のために作った曲はボツに、1979年のセーラ・ロウエルとキャティのコーセー化粧品「TWO WAY SUMMER」は、「あなた一本で行きますから」と言われたにも関わらず不採用となったなど5回ぐらい続く。「風を感じて」は「もうタイアップは二度とやらない」と頭に来ていたタイミングでの楽曲で、三浦徳子の作詞を浜田がほとんどの歌詞を手直ししたといわれ「アンチCMソング」のような内容になっている。1982年の資生堂春のキャンペーン「ルージュマジック」も依頼があったが、対抗していたカネボウ化粧品がHOUND DOGで「パレット・キャット」をやるとなって、「同じCBSソニーではまずいんじゃないか」とボツとなった。(浜田省吾 フレッシュアイペディアより)
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浜田省吾から見た町支寛二
1968年、県内有数の進学校、広島県立呉三津田高等学校に入学。父の期待に応えたいという一心で受験勉強に励んだ。しかし、授業の合間の休憩時間にも全員が予習・復習をしているという環境に馴染めず、不良の溜まり場だった野球部に入部。また、「グルックス」というバンドを組んでいた後の盟友・町支寛二と知り合い「広島フォーク村」にも参加。野球部はきつい練習や先輩部員との対立から3年の時に退部。野球部を辞めた後はフォークソング・クラブ、新聞部に所属する他、生徒会役員となり呉の弾薬庫の弾薬運搬反対デモなど、学生運動にも積極的に参加した。こうした学生運動などの経験が、現在の曲作りの基礎になっているとよく言われるが、本人はそのことを否定している。そうした動きを「アカ」と批判する父親とも激しくぶつかった。浜田いわく父親は非常に保守思想の強い人物で、当初はミュージシャン活動にも批判的だったが後に理解を示し、広島でコンサートが行われた際は必ず観に来ていたという。(浜田省吾 フレッシュアイペディアより)
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浜田省吾から見たジャクソン・ブラウン
一方で、所属事務所であったホリプロダクションとの間で音楽性やコンサート・ビジネスに対する考え方の違いが表面化し、浜田自ら堀威夫社長にかけあい、1983年4月1日に独立。音楽事務所「ロード&スカイ」を設立する。事務所名は浜田が敬愛するジャクソン・ブラウンの曲名「The Road And The Sky」から付けられている。長らく浜田の個人事務所であったが、1990年代以降は尾崎豊(所属は約1年程で個人事務所アイソトープを設立し独立)、三浦知良、スピッツ、斉藤和義らが所属する。(浜田省吾 フレッシュアイペディアより)
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