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済州島から見た南朝鮮国防警備隊
日本の降伏後、連合国占領軍の到着が朝鮮本土に比べて遅れた島内は朝鮮建国準備委員会の済州島支部を起源とする人民委員会が統治を担ったが、政策を巡って人民委員会と米軍政庁は1947年から対立を深めた。そして1948年4月3日には朝鮮の南北分断を固定するとの理由から、南朝鮮単独での総選挙実施に反対する過程で済州島四・三事件が発生し、少なくとも3万人の島民が南朝鮮国防警備隊やその後身の大韓民国国軍、西北青年会等の民間右翼などによって虐殺された。この事件は、朝鮮半島の南北支配戦争の渦中で済州島だけは島民だけで今後の行方を決めようとする運動を、北側の介入と見て南側の軍部や自警団が抹殺したものである。結果として済州島は大韓民国に組み込まれた。この虐殺事件の混乱で済州島民は周辺国に難民として逃れた。現在の在日韓国・朝鮮人には、この時に命からがら日本に逃れて来た者も多い。(済州島 フレッシュアイペディアより)
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