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佐賀県から見た減反
しかし、1960年代後半より減反が進んだことで米中心の農業は打撃を受け、加えて炭鉱の閉鎖が加速し、多久・杵島・東松浦などの旧炭鉱地域を中心として、高度経済成長期に急速な過疎化が進んだ。これに対して1970年代以降、農業は米だけではない野菜や果実などへの多品目化に移行し、また佐賀平野では二毛作による麦の生産が浸透して農業の維持を図った。工業では、高速道路の整備以降は高速周辺での工場誘致が各地で起こった。これによって、鳥栖市を中心とした県北東部では集積した製造業が基幹産業へと成長した。1990年代からは半導体や自動車部品産業が割合を高めている。(佐賀県 フレッシュアイペディアより)
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食糧管理制度から見た減反政策
前述の通り、食糧管理制度は農工間の格差是正のため経済成長に合わせ食糧の高価格維持を戦後も続けていたが、その必要性は徐々に薄れていった。1955年以降は米の大豊作が続くようになり、米価はこれ以上引き上げず現状維持をするという潮流に変わっていった。1960年には生産者価格決定が生産費・所得補償方式となった。また一方で食生活の欧米化も相まって米の需要が落ち着くようになったにも拘わらず、特に品種改良等の技術進歩により北海道や北東北周辺で農業生産を拡大し続けたため、米の自給率が100%を突破した1967年以降は過剰米(コメ余り)が出始めた。以降急激に大量の古米や古古米が余り、処分されるものも出ていたため60年代末には既に大きな問題となっていた。食管会計は赤字がかさんだため、1969年には消費者の嗜好も考慮し自主流通米制度を発足させ、一部の良質な米に限り政府を通さず直接卸売業者などへ販売することを認めた。「自主流通米」という名称は一部の米を除き政府管理は持続するということを踏まえ、自由米(ヤミ米)と区別する意味合いで付けられた。同時に減反政策が開始され、続いて1972年に物価統制令改正で消費者米価が自由化された(標準価格米制度)。(食糧管理制度 フレッシュアイペディアより)
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日高支庁における競走馬の生産から見た減反政策
日高振興局が日本一の馬産地として認識されるようになったのは戦後のことである。1970年に減反政策が開始され、その後まもなく第一次競馬ブームが起こると、それまで零細な規模で稲作を行っていた農家の多くが水田を牧草地に転作し、競走馬の生産を行うようになった。一方、戦前に軍馬や農業馬の産地として有名であった他の馬産地は宅地開発や土地高騰の影響による牧場用地の確保困難や、馬産の大部分を占めていた軍馬・農耕馬の需要の消滅によって衰退した。日高振興局における農業生産額に占める競走馬の割合は1965年には22%であったが、1970年には63%に上昇し、それ以降60〜70%を維持し続けている。(日高支庁における競走馬の生産 フレッシュアイペディアより)
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大迫ダムから見た減反政策
1950年(昭和25年)紀の川の利水に関する奈良県と和歌山県両知事によるプルニエ協定が成立し、現地点にダムを建設し水源とする事で調整が図られた。だが、実施計画調査におけるダム堤高・貯水容量は様々な思惑もあって迷走を続けた。1953年(昭和28年)の当初計画では89.0mであったが翌1954年(昭和29年)には58.0mに低減。その後1958年(昭和33年)には68.0mと10m高くなり、更に翌1954年(昭和34年)には伊勢湾台風による紀の川の大水害を受けて洪水調節機能の付加が論じられ、それに伴って87.0mと更に高くなり、貯水容量も前年計画の4倍に膨れ上がった。この様に計画が迷走した背景には、治水・利水目的の加除に対する農林省・建設省の連携不備や伊勢湾台風による緊急的治水対策、減反政策による農地灌漑面積の変更など複雑な要因が絡み合っていた。(大迫ダム フレッシュアイペディアより)
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米価から見た減反政策
太平洋戦争末期から闇市における米の流通が深刻な問題となり、それが当時の実勢米価となっていた。これに対して政府は米の強制的供出の強化を推し進めたが、その価格の安さが農家の不満を高めた。そこで政府は米価審議会を設置して適正な米価算定に務め、生産費の上昇に対応して生産者米価をスライドさせる「パリティ方式」を導入した。その後、1955年の米の大豊作とインフレーションの収束、商工業の発展によって米価に割安感が生まれた。これに対して1960年からは生産費に加えて都市との所得格差を抑えるために所得補償分を加えた生産者米価が設定されるようになる。これによって高度経済成長期には生産条件に大きな変化がないにも関わらず、都市勤労者の賃金上昇に比例して生産者米価の引き上げが行われた。だが、消費者である都市勤労者の米価上昇に対する不満と生産者米価が消費者米価を上回る「逆ざや現象」の発生(1963年?1987年)や1967年頃からの米余りと減反政策の開始によって生産者米価はオイルショック前後のインフレ期を除いて抑制気味に動くようになった。だが、これに対して農業協同組合などの生産者団体や与党の政治介入が行われて、政治的理由に基づく生産者米価が決定されるようになった(政治米価)。だが、1969年の自主流通米制度の開始、1972年の米の小売価格の自由化、1993年の平成の米騒動及びミニマムアクセスを前提として米の輸入自由化受け入れ、翌1994年の食糧法導入によって米価決定に市場経済の論理が大きく関わるようになった。(米価 フレッシュアイペディアより)