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福島の原子力発電所と地域社会から見た減反政策
このメリットの一つは1970年代初頭よりスタートした減反政策に適応出来たことであり、大熊町は1970年代、毎年常に割り当ての百数十%の水田を自主減反し、政策による強制減反の実施を1982年度まで遅らせることに成功した。また、950haの水田を基盤整備することで農業の機械化を促進し、労働力に余剰を生じさせ発電所関連の雇用による農外所得に回すことができた。このため、冷害の激しかった1980年にも町民への所得の打撃は僅少で済んだという。(福島の原子力発電所と地域社会 フレッシュアイペディアより)
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茅葺から見た減反
材料の確保については、元来は村落周辺に茅場と呼ばれるススキ草原があった。これは、家畜の餌などとして定期的に刈り入れを行い、あるいは春先に野焼きすることで遷移の進行を止めてススキ草原を維持していたものである。しかし、第二次大戦以降の生活の変化によって利用されなくなり、ほとんどが失われた。しかし、その後の減反や離農によりかつての耕作地が自然にススキ原と化している場所も増えていることから、茅集めは以前よりは苦労しなくなっているという。職人の確保も、若手を育成している建築会社が出現するなど、減少に歯止めが掛かろうとしている。伊勢神宮では古来神路山など宮域周辺の各所で茅を集めていたが、大正時代に茅を育成するための用地(神宮萱場)を度会郡度会町に確保した。この萱場では地元住民の奉仕により晩秋にススキが集められる。(茅葺 フレッシュアイペディアより)
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木村迪夫から見た減反政策
卒業と同時にサクランボの自営農に従事。20代では青年団活動の中心メンバーとして多くの社会運動に参加するが、農業のみでの自活は苦しく、農閑期には静岡のミカン畑、東京の工事現場へと出稼ぎに出た。1971年、コメ減反政策推進を機に廃棄物処理業との兼業農家に転身する。処理業のため購入した中古の2トントラックには「人民服務号」の文字塗装を施した。その後、小川紳介監督のドキュメンタリー映画である『牧野村物語』に関わり、また原村政樹監督の長編記録映画『無音の叫び声 農民詩人・木村迪夫の牧野物語』も製作された。同作は第31回農業ジャーナリスト賞を受賞。(木村迪夫 フレッシュアイペディアより)
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大中湖から見た減反政策
干拓された1300ヘクタールのうち、集落や道路などを除く1023ヘクタールが農地として使用されている。大中湖干拓の主目的は他の干拓地とは異なり、食糧対策や失業者対策ではなく専業農家の育成にあった。農業近代化モデル地域という意味合いがあり、入植当初から近代的な稲作の技術指導や大型機械の導入、カントリーエレベーターの建設などが行われた。他県出身者21戸を含む216戸の入植者には農地4.0ヘクタールと宅地0.1ヘクタールが与えられ、北端・西端・南端の3集落に振り分けられた。1960年代はほぼすべての入植者が稲作経営を行い、肥沃な土壌で水稲の豊作が続いた。1970年に本格的な米の生産調整が開始されると、肉用牛の肥育やスイカの生産が導入され、スイカは「大中スイカ」という銘柄でブランド化されたが、収益性の低さから生産面積は減少していき、現在では個人的な生産がみられるのみである。肉牛は「近江大中牛」としてブランド化され、いわゆる近江牛とは異なる流通がなされている。1970年代末にはストレリチアなどの花卉栽培や、キャベツなどの露地野菜栽培も導入され、水稲の作付面積は減少していった。(大中湖 フレッシュアイペディアより)