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渡瀬恒彦から見た高倉健
しかし、渡瀬曰く「いい加減な学生」 で、当時の大学は学生運動全盛期で講義もなければ卒論もない。新聞記者になりたい夢はいつしか消え、作詞家になりたいと詩をたくさん書いていた時期もあった が、大学在学中はやりたいことも見つからないまま、仲間たちと「いつも何かねぇのかな」と語り合っていたという。だからこそ実社会に出たらハードな職種で、なおかつ時代の先端を行く仕事に着きたいと考えた結果、卒業見込み で電通PRセンターに就職した。しかし、研修期間1ヶ月で同社を辞め、先輩が作った「ジャパーク」という広告代理店に移る。仕事は営業、渡瀬自身も会社員時代当時もよく働いていたと自負している。ジャパークで働いていた時、兄・渡哲也の知り合いが不動産屋を始めて急成長。宣伝スタッフがいないというので休日になると手伝いに行っていた。そこでたまたま東映の社員が居合わせ、「俳優にならないか?」と声をかけられる。最初は躊躇するものの、ジャパークの社長に相談すると、「絶対マイナスにならないから」と当時東映企画製作本部長だった岡田茂に会うことを薦められる。実際会いに行ったら岡田の人柄にすっかり魅了され、こういう人がいる世界なら一緒に仕事をしたいと即決で決まった 渡が芸名で活動しているのに対し、本名で活動し始めたのは、高倉健を意識した東映に「大倉純」という芸名を付けられそうになったが気に入らず、それなら本名の方が良いと申し出たことに由来している。(渡瀬恒彦 フレッシュアイペディアより)
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渡瀬恒彦から見た浅丘ルリ子
初めて渡哲也が東映京都撮影所に訪れた1972年、弟の思い出として「幼少時代、みんなが止めるのも聞かずに1度に犬4匹を連れて散歩しに行って案の定傷だらけになって帰ってきたこと」を東映・奈村協に話している。やんちゃで責任感があり根性がある弟を一番理解していた。渡瀬曰く子供の頃はケンカはもちろん、勉強もスポーツも渡瀬の方が上回っており、渡は「恒彦の兄」と言われていた。しかし、兄が俳優になると形容詞が逆転し「渡哲也の弟」と言われるようになる。だが、そんな兄の芸能界デビューを後押ししたのは弟だった。予備校時代、浅丘ルリ子主演『執炎』の相手役募集を新聞で読み、青山学院大学の空手部の仲間と共謀して内緒で写真と書類を送った。何も知らない兄はカンカンだったという。また兄のアパートに来る悪友たちとトリスバーに通った。(渡瀬恒彦 フレッシュアイペディアより)