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2004年アテネオリンピックの日本選手団から見た瀬古利彦
コーチ:浜田安則(日本陸上競技連盟)、高野進(東海大学)、有川秀之(埼玉大学)、永山忠幸(ワコール)、大森重宜(星陵女子短期大学)、小坂忠広(石川県立鶴来高校)、高橋卓巳(香川県立観音寺中央高校)、越川一紀(順天堂大学)、本田陽(中京大学)、室伏重信(中京大学)、坂口泰(中国電力)、白水昭興(日清食品)、瀬古利彦(エスビー食品)、藤田信之(グローバリー)、鈴木秀夫(三井住友海上火災保険)、武冨豊(天満屋)(2004年アテネオリンピックの日本選手団 フレッシュアイペディアより)
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篠田正浩から見た瀬古利彦
高校時代は400m走の選手だったこともあり、大学入学時に早大競走部に入部。当時の早大競走部の長距離コーチで、後にオリンピックマラソン代表の瀬古利彦を育てた中村清に長距離転向を促され、1年生で1950年の箱根駅伝に出場し、「花の2区」を走った。翌1951年に足の故障で陸上選手を断念した(ただし、当時は3区がエース区間で、2区は現在でいうエースクラスが集う区間ではなかった)。大学駅伝に対しては強い思い入れを持っており、毎年シーズンになると熱心に観入っているという。特に箱根駅伝については「箱根駅伝は一種の神事だと思うんだ。お正月から、若者たちが箱根の山に向かって走るわけだ。たすきは各校の御輿でね。」とインタビューで答えている。(篠田正浩 フレッシュアイペディアより)
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宗茂から見た瀬古利彦
1978年2月の別府大分毎日マラソンでは、スタートより果敢に先頭に立ち、当時としては驚異的といえる5km14分台のペースを刻み、40kmまで当時の世界最高記録(デレク・クレイトン:2時間8分33秒6)のペースを上回ったが、後半の強風により世界記録の偉業は阻まれることとなった。それでも世界歴代2位となる2時間09分05秒6で優勝し、日本人では初のサブテン(2時間10分以内)であった。この快記録は、それまで数年続いた日本のマラソン低迷期を脱する画期となった。同年12月の福岡国際マラソンでは期待をかけられたが、早稲田大学の学生だった瀬古利彦が優勝し、茂は3位であった。以後、瀬古は好敵手として宗兄弟の前に立ちはだかることとなる。1979年には翌年のモスクワオリンピックのプレ大会に派遣され、2位となっている。モスクワオリンピックの代表選考レースであった同年12月の福岡国際マラソンでは、瀬古・猛とゴールの競技場でデッドヒートを演じて2位となり、2大会連続のオリンピック代表に選出される。猛と兄弟揃っての代表となったが、日本がモスクワ大会をボイコットしたため、出場は幻となった。(宗茂 フレッシュアイペディアより)