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    瀬古利彦から見たジュマ・イカンガー

    その当時の瀬古のレース運びは、前には出ずに先頭集団の中で位置を窺い、終盤の爆発的なスパートにより勝利するというものであり、先行逃げ切り形のレースはやらなかった。これは、中村の研究と分析による絶妙のコンディショニング、中距離出身で「ラスト400mでは世界に敵なし」とまで言われた終盤のスパート力、スパート地点を見極める抜群のレース勘が一体になって初めて可能なものであった。宗兄弟とのトラック勝負に勝った1979年の福岡国際、同じくジュマ・イカンガー(タンザニア)をトラックのラスト100mで抜き去った1983年の福岡国際はその典型とされる。また、この2つのレースがいずれもオリンピックの代表選考レースであったことからもわかるように、大レースに強いことも大きな特徴とされ、ロサンゼルスオリンピックでの金メダルの期待を高めていた。瀬古利彦 フレッシュアイペディアより)

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    瀬古利彦から見たワルデマール・チェルピンスキー

    オリンピック開催年の1980年、大学を卒業して中村監督とともにヱスビー食品に入社、オリンピックでの勝利を目指したが、ソ連のアフガニスタン侵攻による西側諸国のボイコットで出場はならなかった。同年12月の福岡国際ではモスクワ五輪金メダリストのワルデマール・チェルピンスキー(当時東ドイツ)を破り、自身初の「サブテン」となる2時間9分45秒の記録で3連覇を飾る。瀬古利彦 フレッシュアイペディアより)

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    瀬古利彦から見たスティーブ・ジョーンズ (陸上選手)

    翌1987年4月、ボストンマラソンに3度目の出場。このレースには前年優勝のロバート・ド・キャステラ(オーストラリア)、世界歴代2位保持者スティーブ・ジョーンズ(イギリス)、ロス五輪銀メダリストジョン・トレーシー(アイルランド)、ロス五輪6位ジュマ・イカンガー(タンザニア)らも出場し、豪華な顔ぶれとなったことから「世界一決定レース」などと謳われた。レースは強豪ランナー同士の牽制によりスローな展開となるも、心臓破りの丘で瀬古が抜け出し2度目の優勝を果たす。当時世界最強とみなされていたジョーンズは「瀬古はグレート。世界ナンバーワンだ。」とコメントした。瀬古利彦 フレッシュアイペディアより)

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    瀬古利彦から見た宗茂

    瀬古 利彦(せこ としひこ、1956年7月15日 - )は三重県桑名市出身の元陸上競技・マラソン選手、陸上競技指導者。1970年代後半から1980年代にかけて宗茂、宗猛、中山竹通、新宅雅也らとともに日本長距離界をリードした。2013年1月現在は、ヱスビー食品スポーツ推進局局長を務める。瀬古利彦 フレッシュアイペディアより)

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    瀬古利彦から見た国近友昭

    引退後はヱスビー食品陸上部監督に就任したのち、1990年より4年間は母校早稲田大学競走部のコーチを兼任。武井隆次・櫛部静二・花田勝彦・渡辺康幸らを擁し第69回箱根駅伝総合優勝を果たした他、全日本大学駅伝4連覇など母校の躍進に貢献した。2006年3月限りでヱスビー食品陸上部監督を退任、同年4月1日付で同社スポーツ推進局長に就任した。後任監督には武井隆次コーチが昇格し、中村孝生コーチが部長となった。選手育成においては、1990年の北海道合宿中に金井豊・谷口伴之の有力選手を交通事故で失う悲劇にも見舞われ(エスビー食品陸上競技部員交通死亡事故)、現役時代ライバル関係にあった宗茂らの後塵を拝し続けるなど順風満帆とはいかなかったが、2004年のアテネオリンピックに国近友昭をマラソン代表として送り出した。瀬古利彦 フレッシュアイペディアより)

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    瀬古利彦から見た中村孝生

    ところが、たまたま駆り出されて出場した市の陸上大会の2000メートル競走で優勝、続く県大会でも優勝したことがきっかけで陸上競技に魅力を感じるようになり、陸上競技の強豪校・四日市工業高校への入学を決意する。入学直後から中距離走で頭角を現し、中長距離走では1年生の活躍が難しいと言われる全国高等学校総合体育大会(インターハイ)800mで3位に入賞。順調に成長した2年次には800m、1500mで優勝し中距離二冠に輝いた。3年次には800m・1500m・5000mの中長距離三冠の偉業に挑戦したが、5000mで中村孝生(前橋工)のロングスパートに敗れ2位に終わり、2年次同様に中距離の2冠に終わった。しかし、800mで予選・準決勝・決勝の3レース、1500m、5000mは予選・決勝の2レースと4日間で合計15400mを走破しての2種目の優勝と1種目の準優勝の成績に対し、。瀬古利彦 フレッシュアイペディアより)

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    瀬古利彦から見た東京箱根間往復大学駅伝競走

    逸材であり、大学進学に当たり関東の学校の誘いも多かった。箱根駅伝最多優勝・最多出場を誇る中央大学への入学が決まりかけたが、早稲田大学OBからの勧誘で、(瀬古の父は中央大学へ頭を下げ)早稲田大学の一般入試(運動部員に対する特別優遇の推薦入試等は当時無かった)を受験した。しかし合格に至らなかったため、高校を卒業後、南カリフォルニア大学へ在籍しながらの「浪人生活」を送り、翌年早稲田大学教育学部に合格した。瀬古利彦 フレッシュアイペディアより)

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    瀬古利彦から見たボストンマラソン

    3年生の1978年の同大会で初優勝を果たす(日本人としての優勝も1970年の宇佐美彰朗以来8年ぶり)。1979年4月、海外レース初挑戦となるボストンマラソンに出場、アメリカのビル・ロジャースに次いで2位となる。この時の記録2時間10分12秒は日本学生新記録であった。同年12月の福岡国際で宗兄弟との接戦を制して連覇、その結果1980年にはモスクワオリンピックの代表に選出された。瀬古利彦 フレッシュアイペディアより)

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    瀬古利彦から見た佐々木七恵

    しかし、迎えた8月のオリンピック本番では、調整の失敗により14位と惨敗する。これは中村が女子マラソンに出場した佐々木七恵の付き添いで留守の間に猛暑の東京で無理な練習をしたこと、それに前後して中村がガンを発症している事実を知ったことがその原因としてあげられている。本人の著書ではロス五輪年の1984年は年始めから常に体の倦怠感に悩まされ、ぐったりした体に鞭を打ちながらハードな練習を継続していた。疲労が抜けないのなら休めばよかったと語ってもいる。12月の福岡国際で優勝してから抜く時期を作らないで、本練習に入っており、その調子を8月まで続けようとしたこと自体に無理があったようだ。初めて経験する夏マラソンにいつもの経験とリズムがつかめなかったのが最大の敗因と見ている。瀬古利彦 フレッシュアイペディアより)

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    瀬古利彦から見たアベベ・ビキラ

    フルマラソンの戦績は15戦10勝。勝てなかったのは最初の2回、79年のボストン、そして2度のオリンピックだけだった。ピーク時の強さは世界でも認められるところであり、事実ミュンヘンオリンピックの金メダリストで福岡国際マラソンにも4度勝ったフランク・ショーターは、「マラソンランナーのナンバーワンはアベベ・ビキラ、次に瀬古。僕はナンバースリーだろう」と語っている。瀬古利彦 フレッシュアイペディアより)

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「瀬古利彦」のニューストピックワード

  • 価値のある走り。

  • ここまでいけるとは正直、思っていなかった。63回マラソンを走ってきた経験が生きた。

  • さすが、男を上げた。120点の出来