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けいせい恋飛脚から見た為替
梅川は人に呼ばれてその場を外したが、ひとりになった忠兵衛の前に丹波屋八右衛門が現れる。八右衛門は亀屋に頼んで江戸から五十両の為替の金を送ってもらうはずだった。ところがその期日が十日を過ぎても一向に届いたとの知らせがない、どうしたわけかと責め立てる。忠兵衛は、じつは梅川を身請けしようという田舎の客がいて、その客に梅川を取られまいと、たまたま届いたその五十両を梅川を身請けするための手付け金として使ってしまったのだという。梅川の身請け金は合せて二百五十両、養子の忠兵衛が自由に出来る額ではない。どうか待ってくれと、八右衛門に土下座し涙して謝る忠兵衛。これに八右衛門は「待ってやろう」と言い、そのかわり梅川の身請けの手付け五十両の受取りを、金を返すまで預かろうという。忠兵衛はそれを承知しその受取りを忠兵衛に渡したが、忠兵衛は八右衛門が本来受け取るはずの五十両の受取りを先に書いてくれるよう八右衛門に頼む。八右衛門もそれを承知してその場で受取りを書いて渡す。(けいせい恋飛脚 フレッシュアイペディアより)
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人間万事金世中から見た為替
(同 仙元下裏借家の場)いっぽう林之助は、五郎右衛門に会うことがかなわず金の工面は出来なかった。しかしこのままでは済まされまいと、乳母おしづと千之助の暮らす借家を訪れる。ところがそこでは意外なことが起きていた。何者かが林之助の名を使って、十円の金を為替でおしづ宛てに届けていたのである。林之助は不審がる。とそこへ、大家の武太兵衛(ぶたべえ)が米屋と薪屋を連れてやってきた。武太兵衛たちはおしづが溜めていた店賃や、米代薪代を取り立てにきたのだが、しかしどうせ金はなかろうとおしづたちを罵り、すこしでも金にしようと、無慈悲にも粗末な家財道具を洗いざらい持っていこうとする。林之助が例の十円のうちから金を出して払うと、武太兵衛たちは態度をころりと変えて帰っていった。それを見送る林之助は、「地獄の沙汰も金次第じゃわえ」とつぶやくのであった。(人間万事金世中 フレッシュアイペディアより)
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田部文一郎から見た為替
当時の広島一中は江田島が近いため、海軍兵学校へ行く者、陸軍幼年学校へ行く者を育てるための軍人養成学校のようなスパルタ教育校だった。両親には商人になれと迫られ、どうしても商売をしなければならないなら、と1924年(大正13年)東京商科大学(現・一橋大学)予科へ進学し上京。関東大震災の翌年で東京は焼け野原だった。1930年(昭和5年)卒業後、海外勤務を希望し三菱商事を受験。世界的な就職難の時代、縁故と陸上部に所属していながら成績がよいという理由で三菱商事に入社出来た。営業を希望し機械部勤務。この頃から「将来は社長になる」とまわりに吹いた。入社半年で第一次世界大戦に負けたドイツが戦勝国・日本に払う「対独賠償債権」の請求を担当。猛勉強して大蔵省の役人を前に為替変動の仕組みを講義した。台湾・高雄支店、大阪機械支店の後、1938年(昭和13年)ニューヨーク支店に転勤。当時日本からアメリカへの機械輸出は0で、この頃不況だったアメリカの鉱山地帯をまわり、採掘機械を大量に安く買い付け、満州関係の業者に売ったり、日産自動車の浅原源七や山本惣治に頼まれ、自動車製造技習得のため工場案内や、アメリカの技術者の日本派遣の手引きなどをする。当時はトヨタ自動車もようやく車の製造を開始した頃だった。また同様に八幡製鐵所などの製鉄技術者の案内や製造機械の日本輸出などを行った。他の機械担当者は実際のビジネスを外人まかせにする事が多かったが、田部はアメリカの大企業のトップと直接交渉した。(田部文一郎 フレッシュアイペディアより)
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