-
-
三平 (石工)から見た八代市
藤原林七の次男として生まれる。生まれは肥後藩種山村(現八代市東陽町)と思われる。石工の技術を学び、岩永三五郎に従って、肥後藩各地の石橋の建造と土木工事を行う。天保11年(1840年)、三五郎とともに薩摩藩に赴き、甲突川五石橋などを手掛けた。三五郎が設計と役人との交渉に追われたため、事実上の現場監督は三平だったという。しかし、家老内の内紛が激しくなり、これに巻き込まれた三五郎らが暗殺される可能性が出てくると、三五郎は仲間を少しずつ肥後に返した。甲突川五石橋のひとつ、西田橋の高欄の飾りに三平の技術がどうしても必要だったため、三五郎は最後まで三平を残したが、弘化3年(1846年)これが完成すると、闇夜に紛れて逃げるように指示した。現在のさつま町から出水市付近を逃げているとき追手に見つかり、斬り合いの末山中に逃げ込んだが腕に深い傷を負った。その後も逃げ続け肥後領津奈木村(現熊本県津奈木町)まで辿り着く。(三平 (石工) フレッシュアイペディアより)
スポンサーサイト