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坂口れい子から見た八代市
熊本県八代市に山本慶太郎とマキの二女として生まれた。父親は高田村(現八代市)の富農の出身で、30代で八代町長を務め辣腕を振った。マキは農家出身であるが、どんな人でも優しく平等に接するように教育した。代陽女子尋常小学校から、旧制八代中学に進み、2年生の時少女倶楽部に投稿した短編小説「こはれた時計」が特選となった。熊本女子師範学校(現熊本大学)1933年に卒業。母校代陽小学校の教員となる。1938年からは台湾の台中北斗小学校で小学校教諭を務めながら執筆活動を行う。1940年に歌の同人誌で知り合った坂口貴敏と結婚。1943年に『灯』で第1回台湾文学奨励賞受賞。1946年に引揚げ、八代商業高等学校などの教諭を務める。1953年に『蕃地』で第3回新潮社文学賞受賞。また、『蕃婦ロポウの話』(1960年)、『猫のいる風景』(1962年)、『風葬』(1964年)で3度の芥川賞候補に挙げられながら、賞に恵まれなかった。(坂口れい子 フレッシュアイペディアより)
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さつま号 (八代 - 川内線)から見た八代市
さつま号(八代 - 川内線)とは、かつて熊本県八代市から鹿児島県川内市(現在の薩摩川内市)とを結んでいた快速バスである。(さつま号 (八代 - 川内線) フレッシュアイペディアより)
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陸奥のみち、肥薩のみちほかから見た八代市
1972年1月より薩摩の人間風土を背景にした小説『翔ぶが如く』を執筆していた司馬は、この旅のはじめに、その小説の最終で描くことになる西南戦争の激戦地・田原坂を訪れる。さらに南下し、八代に立ち寄ったあと、人吉街道を通り、人吉にて1泊。人吉では鎌倉時代から700年以上続いた相良氏の城跡を訪れる。そのあと、戦国以降西南戦争まで藩外に対して閉ざされていた久七峠を越え、薩摩藩領に入る。その夜は鹿児島の三大ホテルの一つといわれるところに泊まったが、その猥雑さに鹿児島には洗練された文化意識というものが絶えてしまったのだという思いを抱いた。(陸奥のみち、肥薩のみちほか フレッシュアイペディアより)