-
狂言から見た金剛流
鷺流は徳川家康のお抱え狂言師となった鷺仁右衞門宗玄(1560?1650年)が一代で築き上げた流派である。宗玄は、もとは山城国猿楽系の長命座に属していたが、長命座が金剛座に吸収されてからは宝生座に移り、慶長19年(1614年)に家康の命令で観世座の座付となったのを機に一流をなした。家康に寵愛され、大蔵流を差し置いて幕府狂言方筆頭となって以降は、江戸時代を通じて狂言界に重きをなした。芸風は良く言えば当世風で写実的、悪く言えば派手で泥臭く卑俗なものだったらしい。宗家は鷺仁右衞門(さぎ にえもん)家、分家に鷺傳右衞門(さぎ でんえもん)家、門弟家に名女川六左衞門(なめかわ ろくざえもん)家などがあったが、宗家をはじめとしてほとんどの職分が観世座に属していた。(狂言 フレッシュアイペディアより)
-
狂言から見た家元
江戸時代に家元制度を取っていた流派としては、大蔵流(おおくら りゅう)・和泉流(いずみ りゅう)・鷺流(さぎ りゅう)の3派があったが、このうち現在能楽協会に所属する流派として存続しているのは大蔵流と和泉流だけである。鷺流は今日山口県・新潟県佐渡島・佐賀県に残存しているが、能楽協会への入会資格を認められていない。その他に、室町時代後期から江戸時代初期にかけては南都禰宜流(なんとねぎ りゅう)という神人を中心とした流派があったことが知られている。神人とは神社に属して芸能その他卑賤の仕事に従事した者の称で、かつて猿楽が有力寺社に属していた名残とも言える存在である。室町時代には盛んに活動していたことが諸記録によって知られるが、江戸時代に入ると急速に衰え、江戸初期には既存の流派(大蔵流など)に吸収されて消滅したと言われている。その他にも無名の群小諸派が存在したようで、流派としては既に滅んでしまったが、一部の台本は『狂言記』『続狂言記』『狂言記拾遺』『狂言記外編』という一般読者向けの読み物となって江戸時代に出版され世に残った。(狂言 フレッシュアイペディアより)
-
狂言から見た歌舞伎
この観世座という巨大な座に頼り切った脆弱な構造が災いし、明治維新を迎えるや鷺流は混乱の極みに達した。時の家元だった十九世鷺権之丞は変人と評されるほどの人物で、とても流派を統率する力はなく、困窮した職分は大挙して吾妻能狂言に参加した。これは能楽と歌舞伎を折衷した演劇で、成功せずに明治14年(1881年)頃までには消滅してしまったものだが、参加組は歌舞伎役者に家芸を伝えたと謗られてその後も能楽界への復帰が許されなかった。そして明治28年(1895年)に十九世鷺権之丞が死去すると宗家は断絶。その後は最後の鷺流狂言師となった鷺畔翁が晩年に鷺流宗家を自称していたものの、大正11年(1922年)の彼の死去をもって鷺流は能楽協会に所属する流派としては廃絶するに至った。(狂言 フレッシュアイペディアより)