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琴乃峰篤実から見た琴春日桂吾
2003年一月場所、幕下筆頭(東)で3勝3敗として7番相撲に十両復帰を懸ける。幕下の6戦全勝が出羽乃富士と内田の同部屋(出羽海部屋)2人となった為、自身と同じく十両昇進を懸けるこの場所がデビュー場所の日大から鳴り物入りでプロ入りした内田の7番相撲の対戦相手に選ばれた。内田に相手十分の左四つの体勢から土俵際に詰め寄られるも、逆転の左下手投げで内田を赤房下に横転させ、実現すれば大相撲史上初となる内田の「初土俵から1場所で十両昇進」の快挙を阻み、プロの意地を見せ付けた格好となった。因みに、この取組は「幕下で6戦全勝同士の割が組めなくなった為に、7番相撲に十両昇進を懸ける6戦全勝の力士が同じく十両昇進を懸ける筆頭で3勝3敗の力士と対戦した」史上初のケースだった。これ以降、2004年3月に琴欧州と共に6戦全勝とした琴春日(東8枚目)が大翔大、2006年1月に幕下唯一の6戦全勝とした出羽鳳(西8枚目)が北勝岩と同様の割を組まれているが、何れも全勝側が敗れて十両昇進を逃している。(琴乃峰篤実 フレッシュアイペディアより)
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五城楼勝洋から見た琴春日桂吾
2005年5月場所7日目に行われた琴春日との取組で、五城楼が土俵際で突き落とされた際に右膝を痛めた。この一番に物言いが付き、協議の結果、五城楼の右膝が落ちるのと琴春日の左肘が付くのが同時とみて取り直しが宣告された。しかし五城楼は立ち上がれず、この一番で勝負審判長を務めていた押尾川親方(元大関・大麒麟)が五城楼の棄権の意思と琴春日の出場の意思を確認した上で、琴春日の不戦勝となった。膝を痛めた五城楼は、翌8日目も出場する予定として休場届をすぐに出さなかったために割が組まれたが、やはり痛みが引かず(後に靱帯断裂と判明)に出場せず、8日目における春ノ山戦も不戦敗扱いとなり、2日連続しての不戦敗となった。(五城楼勝洋 フレッシュアイペディアより)
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若圭翔裕樹から見た琴春日桂吾
2011年7月場所7日目(2011年7月16日)に、西幕下12枚目の宇映と東幕下14枚目の若龍勢(放駒部屋)が対戦した取組で、宇映が若龍勢を土俵際まで寄ったもののそこでうっちゃりを食らって後頭部から土俵に叩きつけられ、宇映は脳震盪を起こして立てなくなってしまった。審判の協議は取り直しとなったが、宇映がその後の取組を行うのは不可能と判断され、宇映の不戦敗という扱いとなった。不戦敗は2005年5月場所において十両で五城楼が琴春日と春ノ山に2日連続で不戦敗して以来の記録となった。この取組で勝負審判長を務めていた湊川親方(元小結・大徹)は「西方力士(宇映)が怪我をして取組ができないため『痛み負け』とします」と観客に対して説明した。翌日以降この7月場所は休場し、本人の休場は初土俵以来初めてのこととなった。(若圭翔裕樹 フレッシュアイペディアより)
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琴ノ若晴將から見た琴春日桂吾
2010年3月場所より審判部の所属となり土俵下にその姿を見ることができたが、2010年7月場所直前に弟子の琴光喜が大相撲野球賭博問題により解雇処分となり、責任をとる形で同場所を謹慎処分となり、さらに9月場所前にこの問題の責任をとる形で委員から平年寄へと2階級降格処分となり、同時に審判部から巡業部へ異動となったため、審判委員を務めた時期は実質2場所のみである。さらに2011年4月には弟子の琴春日が大相撲八百長問題により引退勧告処分となり、責任を取る形で昇格停止3年の処分を受けた。年寄据置処分が明けた2014年4月に発表された新たな職務分掌では委員に再昇格した。(琴ノ若晴將 フレッシュアイペディアより)
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HIRO (お笑い芸人)から見た琴春日桂吾
昔から太っており、小さい頃から好き嫌いもなく出されたものは残さずに食べたという。また、両親が共働きで一人で食事をする事が多く、食事の適量が解からなかった事が肥満の原因とも語っている。そのため、5歳で50kg、小学1年生で早くも100kgを超えた。和歌山市立西脇中学校時代には150kgを超え、中学校卒業には190kgを超え、大相撲の世界に入り込むこととなった。中学校卒業後すぐに大相撲の中村部屋に入門し、15歳の時に本名の広瀬という四股名で1993年3月場所に初土俵を踏んだ。入門同期には、同じ中村部屋で後に関取まで昇進した須磨ノ富士、プロレスリング・エルドラド所属のプロレスラー・大鷲透がいた。翌5月場所から四股名を廣瀬富士と改め、序ノ口時代は後の幕内・琴春日を破るなど新弟子時代の成績は決して悪いものではなかった。同年7月場所には四股名を和歌桜と改めたが、厳しい稽古で体調を崩すことが多く長時間裸でいると下痢しやすい体質に悩んでいたこともあり、同年9月場所限りに約半年で相撲界から去った。(HIRO (お笑い芸人) フレッシュアイペディアより)