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八幡 (近江八幡市)から見た琵琶湖
羽柴秀次は安土城主をつとめていたが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉に命じられ、琵琶湖の東岸に八幡城を八幡山に築城した。八幡は、その麓の城下町を起源とする。この築城、町づくりは、大々的に行われ、秀吉の関心の下に、八幡山の掘鑿、沼沢地の地質改良、上下水道の整備までなされた。この築城のおりに外堀として八幡掘が掘られたが、これは、盛んだった琵琶湖流通につながる運河としても利用された。また、東海道と中山道と北国街道が交差する交通の要衝である近江国の地の利を生かして商業地として発展、繁栄した。天正18年(1590年)から、京極高次に城主が代った。このころ、地名を八幡山から八幡町に改称となった。文禄4年(1595年)に、秀次失脚の余波を受けて八幡城は築城から10年足らずで廃城となった。慶長6年から7年(1601 - 1602年)にかけて行われた検地により、553石に、延宝8年(1680年)には558石に認定され、天領となった。その後、旗本の朽木則綱や尾張藩の領地になったこともあったが、嘉永7年(1854年)以降は幕末まで幕府の領地であった。尾張藩領だったころは、税の取り立てが苛烈であり、領民の不満は大きかった。秀次時代からの八幡は、八幡掘を利用した湖上三親浦の一つに数えられる港町として栄えた(他に大津、堅田)。港の発展に伴って、商業の興隆で有名になり、近江商人と称された。鎖国体制が整えられるまでは、阿南屋や暹羅屋など、海外に進出する商家もあった。中期以降の八幡は、株仲間体制の下で発展し、江戸や大坂に店を構え、流通業や金融業に乗り出す家も出てくるなど、近江商人の名は知れ渡った。(八幡 (近江八幡市) フレッシュアイペディアより)