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谷公士から見た甘利明
2009年、公務員制度改革を巡って麻生内閣に人事院総裁として対立した。2009年2月3日、麻生太郎が本部長を務める国家公務員制度改革推進本部は、「公務員制度改革に係る「工程表」について」を決定した。「工程表」は内閣官房に「内閣人事・行政管理局」を設置し、級別定数の設定、任用基準の策定、採用試験の実施、研修および人事院勧告などの人事院の所掌・権限を移管することを定めていた。人事院はこれらは国家公務員制度改革基本法に定められた制度改革の基本方針の枠外であるとし、特に級別定数の移管については、国家公務員の労働基本権制約に対する人事院の代償機能を損なうものであると問題視した。谷は政府案の修正を求めて甘利明行政改革担当大臣と協議したが1月26日の会談で決裂。翌27日には石原伸晃自民党公務員制度改革委員長や河村建夫官房長官とも会談したが、自体の進捗にはいたらず、2月3日、改革推進本部は「工程表」を決定した。決定の日、谷は記者会見で「政府案は公務員制度改革基本法の範囲を超えている。(公務員は全体の奉仕者とする)日本国憲法第15条に由来する重要な機能が果たせなくなり、労働基本権制約の代償機能も損なわれると強く懸念する」と述べ、人事院の意見が取り入れられなかったことに遺憾の意を表明した。(谷公士 フレッシュアイペディアより)
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日本とボツワナの関係から見た甘利明
1994年1月、東祥三外務政務次官が日本の外交関係者として初めてボツワナを訪問。2007年11月、甘利明経済産業大臣がボツワナを訪問し、日本の現役閣僚および経産相(通産省時代も含む)として初の訪問例となった。2009年3月、TICAD閣僚級フォローアップ会合に参加するため福田康夫前内閣総理大臣(当時は麻生内閣)、中曽根弘文外務大臣、御法川信英外務大臣政務官がボツワナを訪問した。これは、日本の首相経験者と現役の外相が訪問した初めての例である。尚、これまでに日本の現役首相と皇族がボツワナを訪問した例はない。(日本とボツワナの関係 フレッシュアイペディアより)
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鈴木宗男から見た甘利明
1983年に中川が死去すると、第37回衆議院議員総選挙で中川が生前に立候補していた中選挙区時代の北海道5区(定数5)から、自民党の公認を得られず保守系無所属で出馬。中川の長男である昭一と骨肉の争いを演じ、激戦の末共に初当選(当選同期には田中直紀・熊谷弘・二階俊博・野呂田芳成・衛藤征士郎・金子原二郎・田中秀征・尾身幸次・北川正恭・町村信孝・自見庄三郎・大島理森・野呂昭彦・甘利明など)。期間中、支持者に対して車窓から箱乗りして手を振る姿は有名である。初当選後、自民党の中曽根康弘総裁から追加公認され、自民党に入党した。鈴木の事前公認に反対したのは党総務局長だった小沢一郎で、鈴木はそれを知ると後々まで恨んだというが、現在は和解している。(鈴木宗男 フレッシュアイペディアより)
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