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  • 日本のダムの歴史

    日本のダムの歴史から見た田中康夫田中康夫

    ダム事業を見直す政府や地方自治体の動きは、2000年代に入ってさらに加速する。その代表的な動きが長野県知事に就任した田中康夫が2001年(平成13年)2月20日に発表した「脱ダム」宣言である。要約すれば「数百億のカネを費やして建設されるコンクリートダムは看過し得ぬ負荷を地球環境に与えてしまう。河川改修費用が例えダム建設より高額になろうとも、100年、200年先の我々子孫に残す資産として河川・湖沼の価値を重視したい。長野県では出来うる限りコンクリートのダムは建設しない」という発言である。そしてこの宣言に基づき浅川ダム(浅川)をはじめ下諏訪ダム(砥川)など建設・計画中の県営ダムを中止した。滋賀県では嘉田由紀子滋賀県知事が長野県と同様に計画中の県営ダム事業を凍結する姿勢を示し、芹谷ダム(水谷川)を中止し北川第一ダム(麻生川)・北川第二ダム(北川)を凍結した。さらに熊本県では潮谷義子熊本県知事が荒瀬ダム(球磨川)について、水利権失効後に撤去するという日本でも例のないダム撤去を2002年(平成14年)に表明。潮谷知事の後を継いだ蒲島郁夫熊本県知事は一旦撤去を白紙に戻したが、球磨川漁業協同組合の同意が得られず最終的に2010年(平成22年)にダム撤去を開始した。また首都圏の水瓶として利根川支流の片品川に建設が進められていた戸倉ダムについては、利水受益者である石原慎太郎東京都知事・堂本暁子千葉県知事・上田清司埼玉県知事が相次いで事業からの離脱を表明。事業が成り立たなくなったことで本体工事に着手したにも拘らず事業者の水資源機構が2003年(平成15年)ダム事業を中止するという異例の事態になった。関西国際空港関連事業の一環でもある紀の川大堰(紀の川)は、当初大阪府が上水道の水利権を持っていたが2009年(平成21年)に橋下徹大阪府知事が水利権を返上し、水道供給目的が喪失した。日本のダムの歴史 フレッシュアイペディアより)

  • 2010年長野県知事選挙

    2010年長野県知事選挙から見た田中康夫田中康夫

    選挙戦には、田中県政時代に副知事を務めていた元総務官僚の阿部守一と安曇野ちひろ美術館館長で絵本・美術評論家の松本猛、それに村井県政の元で副知事を務め県政継承を訴える腰原愛正の3氏が立候補した。2010年長野県知事選挙 フレッシュアイペディアより)

  • ダム建設の是非

    ダム建設の是非から見た田中康夫田中康夫

    近年では公共事業見直しの風潮の中、長野県の田中康夫知事(当時)による「脱ダム宣言」を始め川辺川ダム反対運動等、ダム建設反対活動の勢いは衰えていない。特に徳島県那賀郡木頭村(現・那賀町)に建設省四国地方建設局が計画していた「細川内ダム」(那賀川)は、当時の木頭村長・藤田恵を中心に村全体がダム建設反対運動を展開。20年以上掛けて国・県と対峙した結果1996年(平成7年)に事業計画を事実上中止に追い込んだ。これを契機に日本各地のダム事業が相次いで中止となるなど、影響力は大きかった。こうしたダム反対運動が日本の河川行政の不備を指摘したのは事実であり、そうした流れは漫然とした公共事業継続による歳出超過を削減するという観点で第1次小泉内閣の『骨太の方針』における公共事業総点検へと繋がり、100ヶ所以上のダム事業凍結・中止へと結実した。ダム建設の是非 フレッシュアイペディアより)

  • フライデー襲撃事件

    フライデー襲撃事件から見た田中康夫田中康夫

    これに怒ったたけしは、フライデーの発行元である講談社に電話をかけ、強引な取材に抗議した上、「今から行ってやろうか」と通告し、翌12月9日の午前3時過ぎ、たけしはその弟子集団であるたけし軍団のメンバー11人と共謀して、タクシー3台にそれぞれ4人ずつ分乗し東京都文京区音羽にある講談社本館のフライデー編集部に押し掛け、その結果、暴行傷害事件へ発展した。田中康夫による裁判傍聴記においては、当初たけしは手を出さないよう軍団メンバーに言っておいたものの、当時の編集次長による「自分は空手が得意である」旨の発言をはじめとした、編集部員の挑発的言動が原因で暴行に至ったと記されている。フライデー襲撃事件 フレッシュアイペディアより)

  • 日本のダム

    日本のダムから見た田中康夫田中康夫

    また、環境問題への関心の高まりから、ダム建設による河川水量の減少や水質の悪化も重視されるようになり、利水面で水道需要の当初計画からの需要減少による「水余り」現象が目立ってくるに至って、長良川河口堰(長良川)や八ッ場ダム(吾妻川)・徳山ダム(揖斐川)・川辺川ダム(川辺川)といった利水・治水を目的とした大規模ダム事業への風当たりが厳しくなっていった。ついには田中康夫長野県知事(当時)による「脱ダム宣言」まで飛び出し、ダムが抱えるさまざまな問題が広く知られるようになった。しかし東海豪雨、福井豪雨、新潟・福島豪雨といった大水害と1994年・2005年の大渇水のように地球温暖化の影響ともいわれる気象災害により、治水面においてダムに対する再評価も始まるなど、意見は分かれている。日本のダム フレッシュアイペディアより)

  • 噂の眞相

    噂の眞相から見た田中康夫田中康夫

    田中康夫の東京ペログリ日記 田中康夫の日記(『噂の真相』休刊後は『SPA!』で連載継続後終了)噂の眞相 フレッシュアイペディアより)

  • 越境合併

    越境合併から見た田中康夫田中康夫

    平成の大合併における越境合併の例として2005年2月13日付けで長野県木曽郡山口村が岐阜県中津川市に編入されたが、この合併でも長野県知事・田中康夫が強硬に反対して関連議案を県議会に提出せず議員提案によってようやく越境合併が実現した(田中康夫の項の市町村合併の節も参照)。越境合併 フレッシュアイペディアより)

  • 脱・記者クラブ宣言

    脱・記者クラブ宣言から見た田中康夫田中康夫

    脱・記者クラブ宣言(だつ・きしゃクラブせんげん)とは、2001年5月15日に長野県知事の田中康夫が行った、記者クラブに対する特別優遇の撤廃宣言である。記者クラブから記者室と記者会見の主催権を取り上げた。脱・記者クラブ宣言 フレッシュアイペディアより)

  • 新党日本

    新党日本から見た田中康夫田中康夫

    特定の支持組織や関連団体等はなく、支持層は党代表の田中康夫個人に対する支持者が中心となっていた。党員を一般募集してはいないが、党友的立場である「サポーター」及び関連団体「チーム・ニッポン」の会員は募集していた。同時期に結党された国民新党とは亀井静香や下地幹郎など田中と親交の深い議員も多く、一時統一会派を組んでいた時期もあった。当時毎週水曜日に開かれていた国民新党議員総会には代表である田中も出席し、総会終了後の記者会見は同党代表の亀井と共同で行っていた。しかし亀井が同党を離党した2012年4月に統一会派を解消した。なお党のヘッドオフィスは東京都千代田区平河町に置き、田中代表の選挙区である兵庫県尼崎市(兵庫8区)には「新党日本 尼崎支部」を置いていた。新党日本 フレッシュアイペディアより)

  • 二風谷ダム

    二風谷ダムから見た田中康夫田中康夫

    二風谷ダムは沙流川の治水・利水に貢献しているが、当初の目標を達成するには後述する平取ダムの完成が必要となる。しかし平取ダムは2009年に事業凍結された。また苫小牧東部工業地帯が当初の予測を下回る稼働率となっており、工業用水道については「水余り」となっている。また、ダム湖は予想を大幅に超える堆砂が進行している。完成した1997年には100年間で550万立方メートル土砂が堆積すると予想されたが、10年後の2007年には1268万立方メートルが堆積していることが判明し、100年で堆積する予定の約2.3倍の土砂が、10年で堆積していたことが判明した。当初の試算では230年で堆積するといわれた土砂が、10年間で堆積したことになる。今本博健京都大学名誉教授や田中康夫といったダム反対派は、ダムの堆砂により一定の貯水量を超えると急激に放流量が増し、下流の民家を襲う可能性があると指摘した。このため日本共産党やそれに関係する市民団体、北海道新聞からはダムについて懐疑的・否定的な意見も出ている。沙流川総合開発事業自体は未完成の状態であり、こうした「片肺」の状況下で発生したのは2003年(平成15年)の台風10号による豪雨、いわゆる日高豪雨である。二風谷ダム フレッシュアイペディアより)

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