-
田口壮から見たシアトル・マリナーズ
2002年は開幕ロースターからは外れたものの、6月10日のシアトル・マリナーズ戦でメジャーデビュー。4試合の出場で無安打に終わりマイナーに降格したが、9月7日に再昇格。その日のシカゴ・カブス戦の2回にメジャー初安打を記録し、以降15試合に出場。計2回昇格したメジャーでは19試合の出場で15打数6安打を放った。(田口壮 フレッシュアイペディアより)
-
田口壮から見たプロ野球ドラフト会議
のドラフトでオリックス・ブルーウェーブと日本ハムファイターズから1位指名を受け、抽選の結果オリックスが交渉権を獲得し契約金1億円、年俸1200万円(金額は推定)で入団合意した。同年オフに退団した福本豊が長年着用していた7番を背負う可能性もあったが、熊野輝光の移籍に伴い熊野の着用していた6番で落ち着いた。ドラフトに際しては、平田勝男の後継遊撃手を求めていた阪神タイガースが指名・獲得を望んでいたという。これに対して田口は記者会見で「阪神に行きたくない10カ条」なる文書を読み上げる(後に撤回)。これは阪神と疎遠だった関西学院大学野球部及び学校当局が、田口を阪神に行かせたくないために言わせたものだといわれるが、この行為については当時の野球部監督により叱責を受け、田口も「野球以外の事で怒られたのは初めてだった」と語っている(監督の叱責については当時の「週刊ベースボール」に記載)。2001年オフにも阪神はFAで田口獲得を狙ったがMLBカージナルスに移籍したため、結果として田口が阪神のユニフォームを着ることはなかった。(田口壮 フレッシュアイペディアより)
-
田口壮から見たロサンゼルス・ドジャース
はNPB/MLB通算1500本安打を達成するも代走・守備固めでの出場が多く、後半は同じく移籍してきたエリック・ブラントレットにそのポジションを奪われ、メジャーデビュー後自己最低の成績に終わった。チームは2年連続地区優勝し、ワールドシリーズにも進出して28年ぶりのワールドチャンピオンに輝いたが、自身はロサンゼルス・ドジャースとのリーグチャンピオンシップの1試合出場に留まった。(田口壮 フレッシュアイペディアより)
-
田口壮から見たニューヨーク・メッツ
は開幕戦となったフィラデルフィア・フィリーズ戦に6番左翼手でスタメン出場した。相手先発が左投手の試合ではジム・エドモンズに代わりスタメンで起用されたが、プレストン・ウィルソンの加入以降は代打や守備固めでの出場が増え、控え外野手として134試合に出場した。ポストシーズンでは、ニューヨーク・メッツとのリーグチャンピオンシップシリーズ第2戦の9回に、全盛期の豪腕ビリー・ワグナーから決勝点となる本塁打を放つなど、2本塁打を放つ活躍を見せた。デトロイト・タイガースとのワールドシリーズでは、第4戦の1点ビハインドの7回裏のノーアウト2塁という場面で、代打バントを命じられて見事に成功。エラーで出塁して自ら逆転のホームを踏み、カージナルスの王手に貢献した。次の第5戦では8番・左翼で先発出場。7回から右翼に移り勝利を収め、世界一が決まった瞬間フィールドに立っていた初の日本人選手となった。オフには年俸調停を申請していたが、1月16日に92万5千ドルの1年契約を結んだ。(田口壮 フレッシュアイペディアより)
-
田口壮から見た神戸マラソン
引退発表から約1ヶ月後の10月2日からは、『with…夜はラジオと決めてます』(MBSラジオが2012年度のナイターオフ期間に放送した4時間超の生ワイド番組)の火曜日で、レギュラーでは初めてのラジオパーソナリティを担当。その関係で、2012年12月の「MBSラジオ スペシャルウィーク」では、同局のパーソナリティ代表として「スペシャルウィークPR大使」に起用された。また、2012年11月25日に開催された第2回神戸マラソンでは、朝日放送(ABCテレビ)による番組企画の一環として人生初のフルマラソンに挑戦。5時間51分20秒で完走を果たした。(田口壮 フレッシュアイペディアより)