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田口壮から見たヒューストン・アストロズ
も開幕ロースターに残れず、傘下のAAA級メンフィスで開幕を迎える。5月27日にメジャー昇格し、9試合の出場で4打数2安打2打点を記録したが、6月8日に降格。8月17日にメジャー再昇格を果たし、9月12日のヒューストン・アストロズ戦では二塁手守備に就いて日本人初の内野守備を経験し(グラブはミゲル・カイロから借用)、メジャー初本塁打も放った。28日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦ではデニス・レイエスから3点本塁打を放ち、チームの勝利に貢献。最終的に43試合の出場で打率.259に終わったが、得点圏では打率.357と結果を残した。同年に長男が誕生し、一児の父親となった。(田口壮 フレッシュアイペディアより)
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田口壮から見たデトロイト・タイガース
は開幕戦となったフィラデルフィア・フィリーズ戦に6番左翼手でスタメン出場した。相手先発が左投手の試合ではジム・エドモンズに代わりスタメンで起用されたが、プレストン・ウィルソンの加入以降は代打や守備固めでの出場が増え、控え外野手として134試合に出場した。ポストシーズンでは、ニューヨーク・メッツとのリーグチャンピオンシップシリーズ第2戦の9回に、全盛期の豪腕ビリー・ワグナーから決勝点となる本塁打を放つなど、2本塁打を放つ活躍を見せた。デトロイト・タイガースとのワールドシリーズでは、第4戦の1点ビハインドの7回裏のノーアウト2塁という場面で、代打バントを命じられて見事に成功。エラーで出塁して自ら逆転のホームを踏み、カージナルスの王手に貢献した。次の第5戦では8番・左翼で先発出場。7回から右翼に移り勝利を収め、世界一が決まった瞬間フィールドに立っていた初の日本人選手となった。オフには年俸調停を申請していたが、1月16日に92万5千ドルの1年契約を結んだ。(田口壮 フレッシュアイペディアより)
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田口壮から見た阪神タイガース
のドラフトでオリックス・ブルーウェーブと日本ハムファイターズから1位指名を受け、抽選の結果オリックスが交渉権を獲得し契約金1億円、年俸1200万円(金額は推定)で入団合意した。同年オフに退団した福本豊が長年着用していた7番を背負う可能性もあったが、熊野輝光の移籍に伴い熊野の着用していた6番で落ち着いた。ドラフトに際しては、平田勝男の後継遊撃手を求めていた阪神タイガースが指名・獲得を望んでいたという。これに対して田口は記者会見で「阪神に行きたくない10カ条」なる文書を読み上げる(後に撤回)。これは阪神と疎遠だった関西学院大学野球部及び学校当局が、田口を阪神に行かせたくないために言わせたものだといわれるが、この行為については当時の野球部監督により叱責を受け、田口も「野球以外の事で怒られたのは初めてだった」と語っている(監督の叱責については当時の「週刊ベースボール」に記載)。2001年オフにも阪神はFAで田口獲得を狙ったがMLBカージナルスに移籍したため、結果として田口が阪神のユニフォームを着ることはなかった。(田口壮 フレッシュアイペディアより)
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