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白鵬翔から見た魁聖一郎
11月場所は復帰し自身初の東横綱2の番付で場所に挑む。そして、2016年11月15日、魁聖戦で勝利して通算1000勝を達成した。取組後のインタビューで、史上初めて通算1000勝を達成した千代の富士貢と同様に「(次の目標は)1001勝です」と答えた。しかし、6日目に遠藤に不覚をとり、さらに10日目にも土俵際で勝利したと思ったところを稀勢の里に脚一本で残され敗れてしまう。白鵬は「決まったと思った。休場で勝負勘が足りないのかもしれない」と首をかしげていた。弟弟子石浦の活躍には「一気に来たね。うれしいね」とコメントしていた。また、場所前に痛風を発症し故障の完治が遅れていたことなども判明。八角理事長は「休場明けにしてはよくやったと思う。最後に稽古不足が出た。場所前がいつも通りではなかったわけだから」とコメントした。翌日は勝利するも12日目から照ノ富士、鶴竜と連敗し優勝争いから脱落。だが、この場所14日目に優勝争いしていた横綱日馬富士、千秋楽は綱取りだった豪栄道を倒し11勝4敗で休場明けの場所を終えた。場所後の12月14日、第4子となる三女が誕生。(白鵬翔 フレッシュアイペディアより)
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白鵬翔から見た光法賢一
四股名は、横綱・大鵬と柏戸に因んで柏鵬(はくほう)とする案があったが、色白だったことから白鵬と付けられた(幕内・千代白鵬と四股名が比較されるが、命名は千代白鵬が先)。2001年3月場所に初土俵を踏むが、番付に名前が載った翌5月場所は身体の小ささもあり3勝4敗の成績で、後の横綱(しかも大横綱)としては異例の序ノ口での負け越しを経験する。しかし、入門当時身長175cm、体重68kgだった体は、食文化の違いを苦にせず大食漢だったことと熱心な稽古によって大きく成長し続けた。急激な肉体の成長と才能の開花に歩を合わせるかのように番付を駆け上がり、部屋で稽古を付けていた光法は、「あの白鵬って子、一晩眠るたびに強くなっている。2 - 3年後には化粧まわしや白い稽古まわし(共に関取の象徴)を身につける身分になりますよ!」と驚いていた。実際、皆勤して負け越したのは前述の2001年5月場所と三段目時代の2002年7月場所(3勝4敗)の2場所だけで、これ以降は休場を除いて負け越していない。相撲教習所時代は1度だけ寝坊して教習所に遅刻しそうになったが、遅刻しないように下駄を持って裸足で走って間に合わせた。(白鵬翔 フレッシュアイペディアより)
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白鵬翔から見た隠岐の海歩
9月場所は初日に小結・隠岐の海、2日目に前頭筆頭・嘉風と、過去に一度も負けたことのない相手に2日続けて敗れた。嘉風に敗れたことで自身10個目の金星配給となり、白鵬が小結時代の2005年11月場所以来、また横綱になって初めての連敗スタートとなった。場所前の稽古で左膝を痛めており、「左大腿四頭筋腱炎で4週間の加療を要する見込み」との診断書を提出し、3日目の碧山戦で不戦敗となり、4日目から横綱昇進後初の休場となった。これにより昭和以降1位の幕内連続勝ち越し、連続2桁勝利記録はともに51場所でストップ、史上1位の横綱としての連続出場記録は722回で途切れることになった。(白鵬翔 フレッシュアイペディアより)
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白鵬翔から見たYOSHIKI
9月1日の横綱審議委員会稽古総見を事実上欠席したその日の夜、YOSHIKIのディナーショー東京公演初日にゲストとして出席。8月27日には日本テレビ「24時間テレビ」のフィナーレにも姿を見せていた。休場中のこの挙動を批判するメディアもあり、相撲協会も9月28日に部屋持ちの親方で構成する師匠会で、巡業を休場する力士の行動に関して注意喚起した。春日野広報部長(元関脇・栃乃和歌)は、公式行事である巡業を休むにもかかわらず、私的なイベントなどに出席することを疑問視。「師匠の指導がなっていないということだろう。(力士は)何で飯を食っているのか考えないと」と話した。(白鵬翔 フレッシュアイペディアより)