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MIYAWAKI (プロレスラー)から見た真壁刀義
2001年、プエルトリコ時代のKAIENTAI DOJOに入門。10月18日、プエルトリコの対スペル・クレイジー戦でデビュー。その後、IWAプエルトリコでTAJIRI、藤田ミノル、真壁伸也とユニット「カミカゼ・クラン」を結成。4月20日、K-DOJOの旗揚げ戦に合わせて日本に逆上陸。6月、ユニット「F-words」を結成。(MIYAWAKI (プロレスラー) フレッシュアイペディアより)
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新日本プロレス大作戦DXから見た真壁刀義
2014年9月29日に最終回を迎えるが、翌週2014年10月8日には「新日本プロレス大作戦DX」として一部リニューアルの上、再スタート。ナンバリングも1からとなり、第4回までは真壁刀義と本間朋晃、オカダ・カズチカと外道が新タイトル名を決め合い、新たなテーマ曲やタイトルロゴの制作を頼みに行くという体制を整えるための内容となった。以降、冒頭のミッションを主要ゲストレスラーがコールするようになり、また一部J:COMでの放送も開始された。(新日本プロレス大作戦DX フレッシュアイペディアより)
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外道 (プロレスラー)から見た真壁刀義
2007年5月1日、後楽園ホールで行われたWRESTLE LAND 9thに邪道と共に、WAR時代のようなお揃いのコスチュームで参戦し、近藤修司&"brother"YASSHI組と対戦。当時「コンブラ」の略称で人気を博し、ヒールのタッグチームとして活動していた2人と、国内最長を誇るヒールタッグチームの邪道・外道との対戦は両者共に感情向き出しで鮮烈を極めた。特に邪道は顕著で試合中、止めに入ったタッグパートナーの外道をも突き飛ばすなど、その暴走に歯止めが効かなくなる。結果は邪道がレフェリーへ暴行したことによる反則負け。ゴングが鳴らされた後も、なお暴れる邪道を外道は必死で止めていた。翌2日、後楽園ホール大会でディック東郷&TAKAみちのく組に敗れ王座転落。同年7月、C.T.U解散(公式的な解散は8月26日、邪道・外道の離反による解散という側面もあった)に伴い、天山率いるG・B・Hへ加入。天山が追放され真壁刀義が新たなリーダーとして陣頭指揮を取るようになると、それに追随してG・B・Hとして活動を続ける。(外道 (プロレスラー) フレッシュアイペディアより)
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マンモス佐々木から見た真壁刀義
BJWタッグベルト陥落を機に、2007年にシングルプレーヤーへの転向を決断。2月2日小島聡と対戦、大健闘するも敗北。2月4日真壁刀義の持つWEWヘビー級王座に自身に有利な金網デスマッチルールで挑戦したが敗北した。その後、抗争を繰り広げていた井上勝正の要請に応え、関本・佐々木義人のBJWタッグベルトに再挑戦したが、こちらも敗北した。しかし、9月23日アパッチ後楽園大会にて、再度新日本に流出してしまったWEWヘビー級ベルトを矢野通から奪還。2008年7月12日に石井智宏に敗れるまで、5回の防衛に成功。WEWヘビー陥落直後も自らの申し出により、KAIENTAI-DOJOに流れたBJWタッグ王座奪還に関本大介と共に成功した。(マンモス佐々木 フレッシュアイペディアより)
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ゲリラズ・オブ・デスティニーから見た真壁刀義
2016年3月12日、新日本プロレスのヒール・ユニット、BULLET CLUBの一員として活動するタマ・トンガがG・B・H(真壁刀義&本間朋晃)の保持するIWGPタッグ王座に挑戦をアピールし、共に挑戦するパートナーの正体が「マイ・ブラザー」だと明言した。後日、トンガは弟のテヴィタことタンガ・ロア(Tanga Roa)と共にIWGPタッグ王座に挑戦することが決定となり、タッグチーム名をゲリラズ・オブ・デスティニー(GUERRILLAS OF DESTINY)と改めて、タッグとしての活動を再開した。(ゲリラズ・オブ・デスティニー フレッシュアイペディアより)
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星野勘太郎から見た真壁刀義
魔界倶楽部総裁としては、場外乱闘や試合への乱入も辞さない悪の総裁としてのイメージがあるが、元来は反則攻撃の類を嫌っており、なかでも2008年9月21日の武藤敬司対真壁刀義のIWGPヘビー級王座選手権では当初は新日本所属の真壁の肩を持つ発言をしていたが、試合ではG・B・Hのあまりのラフファイトぶりに怒り、G・B・Hを鉄拳パンチで制裁した。この事件からG・B・Hの外道との抗争に火が付き、内藤哲也・裕次郎対邪道・外道のIWGPジュニアタッグ王座戦で星野は内藤、裕次郎に味方し、反則攻撃を繰り返す外道を制裁した。一連の外道との抗争に決着をつけるべく、2008年12月22日には「ストリート・ファイト エニウェアフォールマッチ」での外道とのシングルマッチが行われ、外道からピンフォール勝ちを収めた。(星野勘太郎 フレッシュアイペディアより)