-
阪神タイガースから見た真弓明信
後藤が2度目の監督に就任したが球団史上初の最下位に終わり、後藤は責任を取る形で1シーズン限りで解任。オフに小津正次郎が球団社長に就任すると、低迷するチームの改革を図るために大規模な改革が必要と考え、田淵と古沢憲司を西武ライオンズの竹之内雅史、真弓明信、若菜嘉晴、竹田和史との交換トレードで放出。更に空白の一日事件で巨人がドラフト前日に江川卓とドラフト外で入団契約しようとすると、これに対抗してドラフトで江川を強行指名した。しかし、巨人入団を強く望む江川との交渉は難航し、結局は日本野球機構コミッショナー・金子鋭(当時)の指示、いわゆる強い要望により江川を巨人に移籍させ、交換トレードの形で巨人の小林繁を獲得した。(阪神タイガース フレッシュアイペディアより)
-
1995年の阪神タイガースから見た真弓明信
2年続けて4位に甘んじたチームは4年連続打率3割のトーマス・オマリーを解雇し、新たにMLBで6年連続20本塁打以上の実績を持つグレン・デービスを入団させ打線の強化を図った。しかし開幕5連敗といきなりつまづいた上、亀山努がグレンと激突して腰椎骨折の重傷を負い、チームは早々と最下位に低迷する。5月中旬に4連勝をマークしてからチーム状態が上向き、6月末までは五分の成績を残し7月以降の上昇に期待がかかった。だがその7月に入ると、今度は新庄剛志の故障離脱が響き5連敗、1つ勝ったあと8連敗という状態で前半戦が終了し、中村は休養。新たに二軍監督の藤田を監督代行に据え後半戦を迎えるが低迷に歯止めをかけることができず、9月に中日に抜かれ再び最下位に転落し、そのままシーズンを終えた。シーズン終了後に真弓明信が現役を引退、また藤田監督との確執や師と仰ぐ柏原純一コーチの退団で球団に不信感を募らせた新庄が突然引退を宣言し、のちに撤回する騒動があった。(1995年の阪神タイガース フレッシュアイペディアより)
-
根本陸夫から見た真弓明信
広島退団後は、鉄鋼業を友人と営むかたわら朝日放送で解説者を務めていたが、1977年オフ、俳優に転向していた安藤昇から「クラウンライターライオンズの仕事を手伝ってくれ」という電話が入った。球団関係者ではなく友人の安藤からの要請に根本は戸惑ったが、「球団から正式に要請がきたら受諾してほしい」とクラウンライターの幹部と親しい安藤が根回しをしてきたと根本は理解し1978年、球団社長の坂井保之に招聘されクラウンライター・ライオンズの監督に就任する。ここでも就任直後から選手に猛練習を課し低迷するチームの建て直しを図ろうとし、就任期間中には真弓明信、立花義家がレギュラーに定着した。2年連続最下位のチームを率いたが5位に終わっている。同年シーズン終了後に国土計画の堤義明社長が球団を買収し球団名が西武ライオンズに変更される。根本はそのまま監督として球団に残留、新生西武ライオンズ初代監督となる。(根本陸夫 フレッシュアイペディアより)
-
-
日刊スポーツから見た真弓明信
創刊当初、阪神は金田正泰、本堂保弥、藤村富美男、土井垣武といった重量感あるラインナップを送り込んだことから、当新聞の記者が「ダイナマイト打線」という愛称を命名した。以降この愛称は阪神打線の代名詞となり、真弓明信・ランディ・バース・掛布雅之・岡田彰布を中心に圧倒的な破壊力でリーグ優勝し、日本一になった1985年にも「新・ダイナマイト打線」として使われた。2003年には当時の田淵打撃コーチが「阪神には打線に愛称がない」と発言したことから、早速大阪本紙版では紙上で愛称を募集し、その候補全てを1面に掲載した。結果は当時の星野監督から「時期尚早」と却下されお蔵入りした。2005年は勝手に「ダイナまいど打線」と命名している。また、2005年の優勝に貢献した3人のリリーフ投手、ウィリアムス・藤川・久保田の愛称として有名になった「JFK」は大阪本社整理セクション記者(紙面をレイアウトする役職)が命名した。1990年代初頭、星稜高校の松井秀喜を「ゴジラ」と命名したのも大阪本社の女性記者である。また、北海道本社版からは2006年の北海道日本ハムファイターズ強力リリーフコンビの武田久とMICHEAL(マイケル中村)を指し、親会社にも通じる「HAM(ハム)の方程式」という言葉も生まれた。(日刊スポーツ フレッシュアイペディアより)
-
熱血!!タイガース党から見た真弓明信
当番組は、福本豊を“党首”(メイン司会、初年度のみ真弓明信)に、阪神タイガースの話題を現地レポートを交えて紹介。後半には、視聴者向けのプレゼントコーナーが設けられている。(熱血!!タイガース党 フレッシュアイペディアより)
-
-
1985年の日本シリーズから見た真弓明信
打撃三冠王のランディ・バースを先頭に真弓明信、掛布雅之、岡田彰布らの猛打でペナントを勝ち取った阪神と、「管理野球」を標榜し、この年防御率1位の工藤公康を始め東尾修、松沼博久、高橋直樹、渡辺久信投手陣を要する西武との対決でもあった。(1985年の日本シリーズ フレッシュアイペディアより)