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石原萠記から見た矢野絢也
社会主義の中でも非共産党の社会民主主義の信念を持ち、社民・中道勢力による自民党政権打倒を目指した。1972年、江田三郎、矢野絢也(公明党書記長)、佐々木良作(民社党書記長)を、西ドイツで大連立を成功させた首相(ドイツ社会民主党党首)、ヴィリー・ブラントと会談させることを企て、8月28日にミュンヘン郊外で実施する準備を進めたが、マスコミに察知され中止となった。1990年には、松前重義とともに、土井たか子(社会党委員長)、永末英一(民社党委員長)、江田五月(社民連代表)や山岸章(連合会長)らに対し、西欧型の社会民主主義政権の樹立を目指す「社会民主主義研究会」の設立を呼び掛けた。(石原萠記 フレッシュアイペディアより)
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谷川佳樹から見た矢野絢也
公明党委員長などを歴任した後に反創価学会に転じた矢野絢也との間で、訴訟合戦を繰り広げていた。矢野は、政治評論活動を創価学会によって妨害されたのは人権侵害だと主張し、谷川らを提訴した。それに対して谷川は、『週刊新潮』の創価学会に関する記事によって名誉を棄損されたと主張し、矢野らを提訴した。ところが、『週刊新潮』に関する裁判にて、谷川が「息子がどうなってもいいのか」などと矢野を脅迫していたことが明るみとなり、東京地方裁判所での第一審判決でも谷川による脅迫が事実であると認定された。双方が控訴したが、2012年2月、東京高等裁判所からの勧告を受け入れ、双方が提訴を取り下げることになった。なお、それに先立ち、公明党の元議員らが矢野の手帳を強奪したと報じた『週刊現代』の記事に関する裁判では、最高裁判所にて公明党の元議員らの敗訴が確定している。(谷川佳樹 フレッシュアイペディアより)
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池田禎治から見た矢野絢也
戦後、日本社会党の結党に参加し西尾末広系の党内社会党右派に所属。片山内閣で首相秘書官と西尾末広国務大臣秘書官を務めた。福岡県小倉市(現在の北九州市小倉南区蜷田若園近辺)の県営アパートの一室を借りて、かなり手狭な社会党支部を開いている。1960年1月、民主社会党(後の民社党)結党に参加。1968年、西村栄一委員長の下で佐々木良作国対委員長が書記長に就任に伴い後任の党国会対策委員長に就任。1971年春日一幸委員長の就任で国対委員長を留任し、同年自民党田中角栄幹事長が公明党矢野絢也書記長らと共に『沖縄関連法案』が衆議院で強行採決されたのを受け、党として同法案の修正案に応じる。翌1972年国対委員長を退任(後任は塚本三郎)。1976年の総選挙で落選したため政界を引退。落選から間もない翌1977年2月に死去した。(池田禎治 フレッシュアイペディアより)
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1987年北海道知事選挙から見た矢野絢也
推薦政党も4年前は社会党と革自連のみであったが、今回は前回選挙にて保守陣営に回った社民連、さらにはサラリーマン新党が推薦を決めた。また公明党や民社党は、前回の保守系候補への相乗りから一転して「自主投票」に回ったが、告示直前に矢野絢也公明党委員長が北海道入りして横路道政を評価する発言をした他、社会党と鋭く対立してきた民社党の春日一幸常任顧問が公示後に横路候補応援のために来道するなど事実上、横路候補を支持する態度を取った。(1987年北海道知事選挙 フレッシュアイペディアより)
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