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古式競馬 (日本)から見た石清水八幡宮
平安中期にもなると、行宮・離宮・公卿の邸宅・神社の境内などで臨時の競馬が行われることもあった。もっとも、馬の飼育には本来は軍事的要素も含まれていたために、臣下がみだりに行うことが出来ず、実際には摂関かそれに類する公卿のみの特権であった。藤原道長は私的な競馬を度々開催して藤原実資より非難を浴びている他、寛弘元年(1004年)に花山法皇の行幸を名目に自邸で競馬を行って以来、一条天皇・三条天皇の行幸などを口実にして競馬を開催し、親王や他の公卿達には当日に走らせる馬を提供させるなど、自己の権威づけに用いた。その後継者である藤原頼通が万寿元年(1024年)に高陽院で催した競馬は、『栄花物語』の「駒競べの行幸」や『駒競行幸絵巻』に描かれている。神社においては、神事として賀茂神社・石清水八幡宮・春日大社の催しが知られる。(古式競馬 (日本) フレッシュアイペディアより)
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永田正道から見た石清水八幡宮
菊沢富章の子として生まれ、勘定を務めた姉の夫である永田政行の婿養子となる。明和6年(1769年)に勘定となり、安永3年(1774年)に養父が没し家督を継承、東海地方や伊勢国に河川改修普請に尽力する。安永7年評定所留役の補佐となり、石清水八幡宮の改修普請を監督する。安永9年評定所留役に昇進。天明7年(1787年)、勘定組頭となり翌年久能山東照宮、宝台院の修復を行う。同年清水徳川家用人に昇進し、のちに布衣を着ることを許され、番頭に転じた。寛政7年(1795年)貞章院用人なり、同9年江戸城西ノ丸広敷用人となる。文化7年12月14日に勘定奉行となり、同8年4月20日、江戸北町奉行小田切直年が在任中に没し、後任として同月25日北町奉行として着任した。文化2年在任中に没した。(永田正道 フレッシュアイペディアより)
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移動変電所から見た石清水八幡宮
1958年(昭和33年)8月9日竣工として日立製作所で製造された。いずれも京阪開業以来のJ.G.ブリル社製Brill 27E1 2軸ボギー台車を装着する12m級車で、M自動空気ブレーキを備える。エキサイトロン形6陽極6タンク方式単極水銀整流器や配電盤などのき電設備を搭載する有蓋車の3201(自重16t、積載14t)と、開閉器・変圧器などの高圧交流機器を搭載する無蓋車の3202(自重14t、積載20t)よりなる。変電能力は600V 2,500A 1,500kWである。新製当初は深草車庫に配置されて同車庫で東福寺変電所の更新工事完了までその機能を肩代わりし、工事完了後は守口車庫へ配置された。以後は各変電所の更新・増強工事に合わせ1300形2両に牽引されて出動、必要に応じて受送電設備、それに留置用側線が用意された中書島・八幡町・枚方市の各駅へ随時移動した。有蓋車の車内には乗務員室が準備されているが、日立直接式簡易遠方制御と呼称する遠隔制御システムを備え、通常はこのシステムを用いた遠隔操作により無人で稼働した。また、変電所の更新とは別に正月や初午の期間には増発などで電力消費が激増する石清水八幡宮最寄りの八幡町に設置されて同駅前後の区間での電圧降下を抑止、期間中の円滑な列車運行を支えた。なお、京阪本線の6地上変電所を代行・補助対象として計画された車両であるが、本形式竣工の時点では京阪本線と線路がつながっていた京津線への入線も支障なく実施可能な車体設計となっている。1971年の3000系新造に先立ち1970年に実施された、貨車の大改番で3201・3202→181・182へ改番されている。1972年の守口車庫廃止後は寝屋川車庫へ配置され、末期は主に寝屋川車庫あるいは中書島に留置されていたが、最終的に京阪本線の架線電圧が1,500Vに昇圧されたことでその役割を終え、1983年(昭和58年)12月に廃車・解体された。(移動変電所 フレッシュアイペディアより)