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石破茂から見た平林鴻三
1981年、父・二朗が死去。父の死後、二朗の友人であった田中角栄から「おまえが(おやじの後に)出ろ」と薦められ、政界入りを志した。1983年、三井銀行を退職し、田中角栄が領袖の木曜クラブ事務局に勤務する。1986年、第38回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で鳥取県全県区(定数4)から出馬し、得票数は最下位ながら4位で初当選した。当時28歳で、全国最年少の国会議員であった。なお、石破本人は田中派からの出馬を希望していたが、鳥取県全県区からは既に田中派の平林鴻三が選出されていたため、中曽根派の幹部であった渡辺美智雄を頼り、中曽根派から立候補した。以後、9期連続当選。1990年の第39回、1993年の第40回衆議院議員総選挙では、鳥取県全県区でトップ当選する。1993年、細川連立政権が推進した政治改革関連4法案をめぐり、野党に転落した自民党の方針に反して賛成し役職停止処分を受けたため、自民党を離党。改革の会に参加し、改革の会・新党みらい・柿澤自由党が合流した自由改革連合を経て、新進党結党に参加した。しかし、1995年に国連中心主義を唱える小沢一郎が新進党党首に選出されると、安全保障政策に失望し、1996年の第41回衆議院議員総選挙を前に単身、新進党を離党。総選挙では新設された鳥取1区から無所属で出馬し、過半数に達する得票で圧勝した。以後7度、鳥取1区では対立候補に1度も比例復活を許さず、当選を続ける。1997年3月、自由民主党に復党。2000年、第2次森内閣で農林水産政務次官に任命され、2001年の第2次森改造内閣では防衛庁副長官に任命される。(石破茂 フレッシュアイペディアより)
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