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  • タンバー (潜水艦)

    タンバー (潜水艦)から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    4月9日、タンバーは10回目の哨戒でマリアナ諸島方面に向かった。4月18日、タンバーはウェーク島北西の地点で生野菜などの食糧を積んだ250トンほどのトロール船を発見して砲撃。これは特設監視艇第三振興丸(東北振興水産、128トン)で、沈黙後にタンバーから何人かの乗組員が乗り移り、日本船員7名を討って二等航海士を捕虜とした。移乗班は備え付けの書類を押収して引き上げ、第三振興丸はひどく傾いた状態のまま放置されて沈没した。5月10日夕方、タンバーはの硫黄島西南西の海上で、駆逐艦朝凪、水無月、水雷艇鴻、海防艦および駆潜艇に護衛されサイパン島に向かう第3503船団を発見。タンバーは潜航し、魚雷4本を発射。2つの爆発を聞いた。この攻撃で特設運送船慶洋丸(東洋汽船、6,441トン)が損傷したが沈没には至らなかった。タンバーは深く潜航して第24号海防艦からの50発の爆雷攻撃から逃れ、攻撃が止んでから浮上して追撃を行おうとした。しかし、水無月がタンバーを発見して爆雷攻撃をしてきたので、タンバーは攻撃を断念してその海域を去った。5月26日、タンバーは の地点で、特設給糧船地洋丸(西大洋漁業、657トン)に魚雷2本を命中させて撃沈した。6月2日、タンバーは54日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。艦長がウィリアム・J・ジルマーショーゼン少佐(アナポリス1935年組)に代わった。タンバー (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • 依岡省三

    依岡省三から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    1865年(慶応元年)、高知に生まれる。1887年(明治20年)、横尾東作による小笠原諸島や火山列島の巡回に同行し、硫黄島とその群島を日本領土へ編入するよう政府に働きかけ、火山列島が帝国版図(東京府下)に加わるきっかけをつくる。大東島での製糖業等南方開発に尽力する。和歌山県新宮町では無煙炭の発掘・販売、銀行設立等地方開発を行う。1910年(明治43年)、鈴木商店の金子直吉らの後援を得、ボルネオ島サラワク王国政府から土地租借および開発の許可を受け、南方開発の足がかりを得る。依岡省三 フレッシュアイペディアより)

  • 1942 (ゲーム)

    1942 (ゲーム)から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    ステージでは1?4はミッドウェイ、5?8はマーシャル、9?12はアッツ、13?16はラバウル、17?20はレイテ、21?24はサイパン、25?28は硫黄島、29?32は沖縄。1942 (ゲーム) フレッシュアイペディアより)

  • 竹槍事件

    竹槍事件から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    毎日新聞は責任者を処分したが、新名は退社させず、逆に編集局長が賞を与えるなどした。記事執筆から8日後、新名に召集令状が届く。新名本人も周囲も、この「指名召集」を東條首相による「懲罰召集」だと受け止めた。新名は郷里、高松に行き、二等兵として丸亀の重機関銃中隊(第11師団歩兵第12連隊)に1人で入営した。中央からは、激戦地となることが予想される硫黄島の「球」部隊へ転属させるよう指令が届いていた。これに対し、新名が黒潮会主任記者という御用記者であり、軍需物資の海軍配当割増という海軍の要求を代弁させた結果の事件であったことから海軍が召集に抗議した。新名は、海軍の庇護に加え、日中戦争当時に善通寺師団の従軍記者をしていたこともあって、中隊内で特別待遇を受けつつ3か月で召集解除となった。その際、中隊の陸軍将校から「近いうちに再召集の命が下るだろうから、内地にいないほうがよい」と忠告されている。竹槍事件 フレッシュアイペディアより)

  • おがさわら丸

    おがさわら丸から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    硫黄島の慰霊祭の際には、特別に父島より遺族・関係者を乗せて船を出しているほか、年に1回程度硫黄列島を巡るクルージングツアーも行われていた(列島の各島には上陸できない)。また、八丈島島民の小笠原訪問・慰霊のため、毎年6月下旬に八丈島(底土港)へ寄港する。その他、久里浜港・館山港・大島に寄港したこともあった。おがさわら丸 フレッシュアイペディアより)

  • 第一航空隊

    第一航空隊から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    機体を喪失して生還した要員の一部は本土に帰還し、豊橋の再編部隊と合流して一からの再編作業に従事した。実線投入に目処がついたころ、米軍は絶対国防圏への侵入を図り、マリアナ諸島への攻撃を企図していた。本土を拠点として硫黄島経由でマリアナ諸島を支援すべく、1944年6月14日硫黄島に先発隊12機を派遣、6月15日二十七航戦と横須賀海軍航空隊を連合し、「八幡空襲部隊(八幡部隊)」を結成。以後、散発的にマリアナ諸島に進出。1944年6月24日硫黄島に敵機襲来。以後、断続的に空襲のため戦力消耗。6月28日マリアナ沖の船団を5機で攻撃。戦果なし・4機喪失。6月30日アスリート飛行場を4機で爆撃。7月4日硫黄島空襲で機体全損、作戦行動不能。7月10日八幡部隊残留勢力を再編し、第三航空艦隊を新編。七五二空は定数拡大を除き変動なし。攻703飛行隊は木更津、攻256飛行隊は館山飛行場に常駐。7月23日「T攻撃部隊」結成のため、攻703飛行隊が転出し、横須賀空から攻5飛行隊(彗星隊)・攻501飛行隊(銀河隊)が編入。8月4日スカベンジャー作戦で小笠原来襲の米機動部隊に対し6機で夜間索敵攻撃。戦果無く、1機喪失。第一航空隊 フレッシュアイペディアより)

  • 政野岩夫

    政野岩夫から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    鹿児島実業から門司鉄道管理局を経て、1938年に南海軍に入団。1941年に応召し、1943年に南海へ復帰。1944年シーズン途中に2度目の召集となり、輸送船で硫黄島へ向かう途中に撃沈され戦死した。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。政野岩夫 フレッシュアイペディアより)

  • カボット (空母)

    カボット (空母)から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    カボットは短期の修理で真珠湾へ戻ったが、その後マジュロを出撃し、3月末からパラオ、ヤップ島、ウルシー環礁、ウォレアイ環礁への攻撃を行う。ホーランディア攻撃の間4月22日から25日まで航空支援を行い、4日後にトラックへの再攻撃および、サタワン環礁とポナペに攻撃を行った。6月6日、マリアナ諸島攻略の前に再びマジュロを出撃し、19日、20日には「マリアナの七面鳥撃ち The Marianas Turkey Shoot.」と揶揄されたマリアナ沖海戦に参加した。カボットの第31航空団は硫黄島、パガン島、ロタ島、グアム、ヤップおよびウルシーの日本軍基地への攻撃を8月9日まで継続した。カボット (空母) フレッシュアイペディアより)

  • 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定

    南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    この合意に基づいて、1968年4月5日に本協定が締結・調印され、5月22日には採決を棄権した日本共産党以外の全会一致で国会の承認を受けた。これによって、6月26日に協定が発効して小笠原諸島は返還された。小笠原諸島に対しても日米安保条約は適用されるとされていたことから、硫黄島や南鳥島にあった通信施設など一部のアメリカ軍基地は引き続き使用が認められた。南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定 フレッシュアイペディアより)

  • 父親たちの星条旗

    父親たちの星条旗から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    太平洋戦争最大の戦闘とされる硫黄島の戦いを日米双方の視点から描いた「硫黄島プロジェクト」のアメリカ側視点の作品である。硫黄島での死闘と戦場(摺鉢山の山頂)に星条旗を打ち立てる有名な写真「硫黄島の星条旗」(Raising the Flag on Iwojima)の被写体となった兵士たちのその後などが描かれる。2006年10月に開催された第19回東京国際映画祭においてオープニング作品として上映されたのち、10月28日に全国公開された。同年12月に日本側の視点で描いた『硫黄島からの手紙』が連続公開された(ただし、この連続公開は日本とアメリカにおいてのみ)。父親たちの星条旗 フレッシュアイペディアより)

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