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  • ホエール (潜水艦)

    ホエール (潜水艦)から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    7月21日、ホエールは5回目の哨戒で東シナ海に向かった。8月4日から6日にかけて台風に翻弄され、艦内に侵入してきた海水によって、いくつかの機器が故障してしまった。翌7日には小笠原諸島近海に到達。8月8日朝、ホエールはの硫黄島南東の地点で、駆逐艦朝凪と特設運送船(給兵)鳴門丸(日本郵船、7,149トン)からなる第4731船団を発見。魚雷を4本発射し、うち2本を鳴門丸の中央部と後部に命中させ、鳴門丸は右舷に傾きながら沈んでいった。ホエールは8月9日から10日間はこの近海で哨戒し、8月20日に台風シーズン真っ只中の東シナ海に移動。ここでも3日間台風に翻弄された。8月24日未明、ホエールはの草垣群島の西方20マイルの地点で輸送船団を発見し、魚雷を4本発射して2つの爆発音を聞き、7,000トン級輸送船と10,000トン級タンカーを撃破したと判断された。ミッドウェー島への帰途について2日後の8月26日朝にも、の地点で2隻の輸送船と千鳥型水雷艇と思しき護衛艦、フ806船団を発見し、魚雷を4本発射したが命中せず、魚雷を使い果たした。9月7日、ホエールは46日間の行動を終えて真珠湾に帰投。真珠湾でオーバーホールに入った。ホエール (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • サンフアン (軽巡洋艦)

    サンフアン (軽巡洋艦)から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    1944年1月19日、サンフアンは真珠湾でサラトガと再び合流し、サラトガの任務群は2月のエニウェトクの戦いを支援した。次いで、サンフアンは空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-10) およびレキシントン (USS Lexington, CV-16) を護衛し、3月30日から4月1日にかけて、パラオ、ヤップ島およびウルシー環礁への攻撃(パラオ大空襲)を支援した。4月7日、サンフアンは空母ホーネット (USS Hornet, CV-12) と合同し、ホーランジアの戦いの支援と、4月29日と30日に行われたトラック諸島への再度の空襲に従事した。ホーネットの任務群はマーシャル諸島の前進基地に引揚げて整備の後、6月前半からはマリアナ諸島の戦いの前哨戦として、小笠原諸島の父島と硫黄島への攻撃を行った。アメリカ軍はサイパン島に上陸し、これを阻止しようとした日本艦隊をマリアナ沖海戦で打ち破った。サンフアンは、海戦で対空防衛に専念した。サンフアン (軽巡洋艦) フレッシュアイペディアより)

  • パイパー (潜水艦)

    パイパー (潜水艦)から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    1945年1月25日、パイパーは最初の哨戒でボーフィン (USS Bowfin, SS-287) 、ポンフレット (USS Pomfret, SS-391) 、スターレット (USS Sterlet, SS-392) 、トレパン (USS Trepang, SS-412) とウルフパック「マックズ・モップス Mac's Mops」を構成し、小笠原諸島方面に向かった。この哨戒では、この方面にある特設監視艇群を蹴散らして来るべき硫黄島の戦いを支援する第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)やB-29などへの手助けをする任務が与えられており、この任務にはもう一つのウルフパック、ラガート (USS Lagarto, SS-371) 、ハダック (USS Haddock, SS-231) 、セネット (USS Sennet, SS-408) の「ラタズ・ランサーズ Latta’s Lancers」も従事していた。「マックズ・モップス」はサイパン島に寄港の後、2月10日に硫黄島近海の担当海域に到着。2月13日までの最初の3日間は何も発見できなかった。パイパーは3月24日までの間、本州南方でB-29への支援と監視艇探索の任務を交互に実施。2月25日夜、パイパーはの地点で2隻の船舶を発見し、2,000トン級の船を浮上雷撃により撃沈したと判断した。しかし、実際に撃沈したのは特設監視艇第三宝松丸(吉川広之、111トン)であった。哨戒の最後の4日間は、九州沖航空戦で大破し曳航されている空母フランクリン (USS Franklin, CV-13) への支援に従事した。3月30日、パイパーは60日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。パイパー (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • シーフォックス (潜水艦)

    シーフォックス (潜水艦)から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    10月4日、シーフォックスは最初の哨戒で小笠原諸島方面に向かった。10月25日まで同海域で活動し、敵艦への攻撃および硫黄島へ攻撃を行うB-24乗員の救助艦任務に当たった。10月26日、シーフォックスは敵貨物船に対して最初の攻撃を行なう。その後南西諸島方面に向かい、11月8日に到着した。到着当日、シーフォックスはの地点で僚艦クイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393) とともに敵船団に対して4度の攻撃を行い、合計11本の魚雷を発射。発射した11本は何発かが敵艦に命中し、貨物船2隻8,000トンを撃沈したと判断された。また、11本のうちの1本が円弧を描いてシーフォックスの司令塔上方を通過したが、幸いにしてタリビー (USS Tullibee, SS-284) 、タング (USS Tang, SS-306) のような珍事は避けられた。11月15日に哨戒海域を撤収した。11月24日、シーフォックスは49日間の行動を終えてマジュロに帰投した。シーフォックス (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • シャーク (SS-314)

    シャーク (SS-314)から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    7月10日、シャークは2回目の哨戒で小笠原諸島方面に向かった。7月19日、シャークはの地点で敵船団に対して4本の魚雷を発射するが、船団は鋭く方向を変え、魚雷は命中しなかった。8月1日、シャークは再び船団と遭遇、攻撃位置に移動したが、3隻の護衛艦による攻撃のため船団への攻撃を行うことはできなかった。その日の午後、シャークは硫黄島近海へ向かい、空母機動部隊の救助巡航任務に当たった。8月4日の午後、シャークは空母レキシントン (USS Lexington, CV-16) 所属の墜落した雷撃機のパイロット2名を救出した。8月19日、シャークは50日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。後日真珠湾に回航された。シャーク (SS-314) フレッシュアイペディアより)

  • パーチ (SS-313)

    パーチ (SS-313)から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    1951年8月から1952年3月まで、パーチはメア・アイランド海軍造船所でオーバーホールが行われた。1952年から54年までアラスカおよびハワイ海域での訓練に従事し、1955年1月に西太平洋への巡航を行う。太平洋では硫黄島および小笠原諸島で偵察活動を行った。極東への巡航と巡航の間には、サンディエゴ海域で定期訓練および揚陸演習に従事した。その最中の1956年10月24日に、パーチは APSS-313 (輸送潜水艦)に再び艦種変更される。11月5日にサンディエゴを出航しパナマ運河地帯での偵察演習に従事、12月11日に帰還した。1957年末にはサンディエゴからハワイ、アラスカへと偵察巡航を行い、1958年と59年の大半はサンディエゴ海域で海兵隊および水中破壊部隊と共に揚陸訓練に従事する。1959年12月、パーチはサンディエゴを出航し、1960年3月31日に退役、カリフォルニア州ヴァレーホの太平洋予備役艦隊メア・アイランドグループで保管される。パーチ (SS-313) フレッシュアイペディアより)

  • 井上靖 (陸軍軍人)

    井上靖 (陸軍軍人)から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    1914年(大正3年)5月28日に陸軍士官学校を卒業し、同年12月25日陸軍歩兵少尉に任官される。士官候補生第26期の井上の同期には硫黄島で戦死した栗林忠道大将や、軍需省航空兵器総局長官の遠藤三郎中将、終戦時の陸軍次官若松只一中将がいる。井上は陸軍大学校に進み1922年(大正11年)に卒業(第33期)、以後歩兵科将校として累進。1929年(昭和4年)4月12日には中華民国在勤帝国大使館附武官補佐官を命ぜられ北平に駐在する。同年12月に免ぜられる。1932年(昭和7年)1月10日から竜井村特務機関長を務める。井上靖 (陸軍軍人) フレッシュアイペディアより)

  • 第10軍 (アメリカ軍)

    第10軍 (アメリカ軍)から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    第10軍がテキサス州サム・ヒューストン基地で編成されたのは、マリアナ諸島をめぐる戦いの真っ最中だった1944年6月20日のことである。間もなく司令部はオアフ島に移転する。第10軍司令官に内定していたバックナー中将が着任するのは9月になってからのことだったが、それまで司令官を務めていたアラスカ軍司令官のころからコーズウェイ作戦の陸上部隊指揮官にも内定しており、作戦の研究を重ねていた。ところが、バックナー中将は研究の末に、「太平洋戦域の戦力と補給力を総動員しても作戦の遂行は難しく、ルソン島を確保できるならば台湾攻略の必要はない」という結論を出した。バックナー中将の意見提出と相前後してコーズウェイ作戦の無益を示唆する意見が相次ぎ、太平洋艦隊司令長官で戦域司令官も兼ねたチェスター・ニミッツ海軍大将は意見を集約した上で、コーズウェイ作戦のもっとも強力な支持者だった海軍作戦部長兼合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング大将にコーズウェイ作戦の中止を進言し、1944年12月にコーズウェイ作戦は取り消されて硫黄島とともに沖縄の攻略が本決まりとなった。このような経緯から、第10軍はもともと台湾攻略のための軍として編成された、と言っても間違いではない。第10軍 (アメリカ軍) フレッシュアイペディアより)

  • コード (暗号)

    コード (暗号)から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    たとえば、昭和19年に編纂した日本陸軍暗号書5号には「硫黄島」や「艦載機」の語句が当初採用されていなかった。つまり陸軍が硫黄島で戦い、(米海軍の)艦載機の攻撃を受けるとは想定していなかったことがわかる。コード (暗号) フレッシュアイペディアより)

  • 横須賀海軍航空隊

    横須賀海軍航空隊から見た硫黄島 (東京都)硫黄島 (東京都)

    1944年(昭和19年)2月より実戦配備につく。6月15日、あ号作戦発動にともない、第27航空戦隊と八幡空襲部隊を編成し、マリアナ方面の後詰として硫黄島へ進出した。度重なる空戦と硫黄島への爆砲撃により、7月4日までに全機材を喪失。残存隊員は輸送機で横須賀に帰還するが、一部の隊員はそのまま硫黄島の守備につき、のちに玉砕した。その後は九州に進出しての特攻攻撃援護、および関東地区防空戦に従事した。横須賀海軍航空隊 フレッシュアイペディアより)

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