-
硫黄島 (東京都)から見たアメリカ軍
硫黄島の呼称は、戦前は島民と主に大日本帝国陸軍の間では「いおうとう」、大日本帝国海軍の一部の間と明治時代作成の海図では「いおうじま」としていた。アメリカ合衆国ではこの海図の表記に従い「Iwo Jima(イオージマ)」とし、終戦後、同島はアメリカ軍の統治下にあったことから「Iwo Jima」と呼称されていた。1968年に同島の施政権が日本国に返還された際に国土地理院発行の地形図上の呼称は「いおうとう」に戻されたが、1982年の地形図改訂の際に小笠原村は同島の呼称を「いおうじま」と東京都に報告、都ではこれに基づき「いおうじま」と公報したため、地形図においても「いおうじま」と呼称されるようになった。各報道機関でも同島を「いおうじま」と報道したことにより、2007年までは「いおうじま」と呼ばれることが多かった。(硫黄島 (東京都) フレッシュアイペディアより)
-
硫黄島 (東京都)から見たアーリントン国立墓地
なお、硫黄島で戦死した米軍兵の遺体の大半は、硫黄島の戦い後暫くは摺鉢山山麓を中心に墓地を造成し、柩一台一台の上に十字架を立てて手厚く埋葬されたが、現在は全てが米国本土のアーリントン国立墓地へと帰還を果たしている。(硫黄島 (東京都) フレッシュアイペディアより)
-
硫黄島 (東京都)から見た海図
硫黄島の呼称は、戦前は島民と主に大日本帝国陸軍の間では「いおうとう」、大日本帝国海軍の一部の間と明治時代作成の海図では「いおうじま」としていた。アメリカ合衆国ではこの海図の表記に従い「Iwo Jima(イオージマ)」とし、終戦後、同島はアメリカ軍の統治下にあったことから「Iwo Jima」と呼称されていた。1968年に同島の施政権が日本国に返還された際に国土地理院発行の地形図上の呼称は「いおうとう」に戻されたが、1982年の地形図改訂の際に小笠原村は同島の呼称を「いおうじま」と東京都に報告、都ではこれに基づき「いおうじま」と公報したため、地形図においても「いおうじま」と呼称されるようになった。各報道機関でも同島を「いおうじま」と報道したことにより、2007年までは「いおうじま」と呼ばれることが多かった。(硫黄島 (東京都) フレッシュアイペディアより)
-
硫黄島 (東京都)から見た郵便物
火山活動による隆起が非常に激しいため、硫黄島に港を築港することができず、船積みのボートが着けられる程度の小さな波止場(桟橋)しか存在しない。その関係で大型船舶は少し沖合いに停泊せざるを得ず、航空機で運べないような重量物は、おおすみ型輸送艦を使い、艦載のLCACで海岸から少し内陸のところにある揚陸施設に揚陸させる。航空燃料や軽油などは、沖合いに停泊した民間タンカーから、揚陸施設へと長大ホースを伸ばして補給を行う。硫黄島への宅配便・郵便物は通常の硫黄島の住所を記載しても届かない(日本郵便においても「交通困難地」とされている)。隊員の家族の仕送りや外部から業務用の資材や郵便物などは、自衛隊が指定した基地へ一括搬入することになる。(硫黄島 (東京都) フレッシュアイペディアより)
-
硫黄島 (東京都)から見たグアム島
東京都の小笠原諸島の島で、同諸島の行政府が置かれている父島からは300 km、本州、グアム島、南鳥島、沖縄本島から、それぞれ1,200 kmから1,300 km程度のほぼ等距離に位置する。硫黄島の北方約75kmには北硫黄島、南方約58kmには南硫黄島があり、この3島で火山列島(硫黄列島)を構成する。3島とも同じ造りの海底火山の島であり、その体積は富士山を遥かに凌ぐ。2014年(平成26年)の国土地理院による調査で、父島を抜き小笠原諸島で最大の島になっていることが分かった(23.73km)が、隆起量が大きい事から外洋の荒波による浸食に耐え面積は拡大を続けている。(硫黄島 (東京都) フレッシュアイペディアより)