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神奈川県から見たウィリアム・アダムス
江戸時代には小田原藩が存在したが、旗本領も多く、三浦按針(ウィリアム・アダムス)が徳川家康から三浦半島に領地を拝領したことは有名である。江戸時代中期以降、現県域内に本拠を置いたのは小田原藩のほかに同藩の支藩である荻野山中藩および武蔵金沢藩(六浦藩)があり、ほかに県域外に本拠を置く藩(烏山藩、佐倉藩、西大平藩など)の飛地が多く配された。小田原藩は相模川以西にある程度まとまった所領を有していたが(全域を領していたわけではない)、特に相模川以東では幕府領・旗本領・大名領のいずれについても支配が細分されて相給とされる村が極めて多く、現県域内において地域的なまとまりを醸成するような一円的な支配は行われなかった。(神奈川県 フレッシュアイペディアより)
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神奈川県から見た聖武天皇
神奈川県域は、相模八郡と武蔵国三郡からなる。国司が政務を執る政庁(国衙)は、国府と呼ばれた。相模国の国府は初め海老名に置かれ、後に移された。移転先の所在地は、はっきりしないが、『和名類聚抄』によると大住郡、『伊呂波字類抄』には余綾郡にあったとされる。武蔵国の国府は、東京都府中市大國魂神社付近といわれる。その神社境内から国庁脇殿と考えられる建物跡や敷き瓦が出土している。聖武天皇によって天平13年(741年)に詔が出され、全国に国分寺(僧寺と尼寺)が造営された。武蔵国分寺は東京都国分寺市に所在し、僧寺の伽藍は、中門・金堂・講堂が一直線に並ぶ東大寺式である。寺域は3〜4町四方(約15ha)で、全国でも最大規模に属する。相模国分寺は、海老名市国分にある。僧寺は東西160m、南北120mの回廊をめぐらし、中門・東西に金堂と塔・講堂が配置された法隆寺式で、詔が出された天平より古い白鳳様式であるので、郡司の氏寺を改修したものと考えられている。尼寺は、中門・金堂・講堂と並び、講堂の両脇に経蔵と鐘楼がある。(神奈川県 フレッシュアイペディアより)
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神奈川県から見た伊豆半島
足柄平野の北東縁で大磯丘陵との境界をなす直線的な急崖は国府津-松田断層帯と呼ばれる非常に活発な活断層によるものであり、これを山北町の神縄断層に延長した神縄・国府津-松田断層帯は東日本を載せる北アメリカプレートと伊豆半島を載せるフィリピン海プレートの境界と考えられている。丹沢山地は、フィリピン海プレートに載って南から移動してきた伊豆半島が本州に衝突することで隆起して形成された山地であり、大磯丘陵は神縄・国府津-松田断層帯の活発な活動の蓄積によって隆起した丘陵である。神縄・国府津-松田断層帯は相模湾底の相模トラフに続き、1703年(元禄16年)の元禄大地震や1923年(大正12年)の関東地震(関東大震災)などの大地震の震源となっている。(神奈川県 フレッシュアイペディアより)