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武蔵国から見た相模国
本居宣長は『古事記伝』の中で「武蔵国は駿河・相模と共に佐斯国(サシ)と呼ばれ、後に佐斯上(サシガミ)・下佐斯(シモザシ)に分かれ、これが転訛し相模・武蔵となった」とし、賀茂真淵は『倭訓栞』に「身狭(ムサ)国があり、のち身狭上(ムサガミ)・身狭下(ムサシモ)に分かれて相模、武蔵となった」と唱えている。さらに近藤芳樹『陸路廼記』など「総(フサ)国の一部が分割され総上(フサガミ)・総下(フサシモ)となり、それぞれ相模・武蔵となった」とする説もあるが、これらの説は、武蔵国はかつて毛野国(群馬県・栃木県)地域と一体でありその後7世紀にヤマト王権が総国からこの地域に進出して勢力下においた、とする考古学的成果と相容れない。(武蔵国 フレッシュアイペディアより)
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滋野貞主から見た相模国
天長10年(833年)正良親王の即位(仁明天皇)に伴い正五位上と二階級の加叙を受けると、翌承和元年(834年)従四位下、承和6年(839年)従四位上と順調に昇進し、承和9年(842年)には参議に任ぜられて公卿に列した。またこの間、下総守・内蔵頭・宮内大輔・相模守・兵部大輔・大和守・弾正大弼・大蔵卿・讃岐守・式部大輔・勘解由長官と内外の多数の官職を歴任している。承和11年(844年)には私邸(城南宅)を寺として慈恩寺を建立した。貞主は座禅の合間に方々を巡り歩き、人々に慕われたという。承和12年(845年)「便宜十四事」を陳述。嘉祥2年(849年)尾張守を兼ね次いで宮内卿に遷任。(滋野貞主 フレッシュアイペディアより)