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福井俊彦から見た白川方明
2008年3月、福田康夫内閣は財務省出身で日本銀行副総裁の武藤敏郎の総裁昇格案を国会に提示したが、3月12日に野党が過半数を占める参議院で不同意となった。これを受けて福田内閣は3月18日に同じく財務省出身で国際協力銀行総裁の田波耕治を日本銀行総裁に充てる人事案を新たに提出したが、3月19日の参議院本会議でまたも野党が田波総裁案を否決・不同意としたため、日本銀行総裁が不在という事態になった。こうした異常事態のなかで、3月19日には内閣から日本銀行副総裁に任命された白川方明が総裁職務代行者として指名され、翌3月20日、白川方明は副総裁就任後直ちに総裁職の代行を務めた。しかしながら、日銀総裁の空席による総裁代行の立場が長期間続くと、内外の経済問題への日銀の対処が難しくなる恐れが指摘された。(福井俊彦 フレッシュアイペディアより)
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福井俊彦から見た竹中平蔵
この間、モルガン・スタンレー証券のロバート・フェルドマン経済研究主席は、日銀総裁人事などの重要案件には「特定の基準に照らして開かれた議論」が望ましいと主張し、中央銀行マン・官僚・財界人ら19人を「マクロ経済学と独立性」「政策決定機関のトップをつとめた経験」「国内外のネットワーク」の3指標で採点した結果を「次期日銀総裁 -- 候補者を比較する」と題する調査報告書として発表した(英文は3月25日、和文は翌26日に公表、英国フィナンシャル・タイムズ紙2008年4月3日号に紹介記事)。最も評価が高かったのは、小泉純一郎内閣で経済財政担当相や金融相などを歴任した竹中平蔵と日銀出身で金融研究所所長や経済協力開発機構(OECD)の副事務総長を務めた重原久美春で、武藤は「マクロ経済学と独立性」で17位、ほかの二つの基準で18位にとどまり、田波はいずれの基準でも最下位であった(白川は総裁候補のリストには含まれなかった)。(福井俊彦 フレッシュアイペディアより)
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福井俊彦から見たアラン・グリーンスパン
2004年2月14日、英エコノミスト誌はToshihiko Goldilocksと題した記事で、前任の速水優を「おそらく世界で最悪の中央銀行総裁possibly the world's worst central banker」と評した上、連邦準備制度理事会(FRB)のアラン・グリーンスパン議長や欧州中央銀行(ECB)のジャンクロード・トリシェ総裁ではなく、より強力な量的緩和に踏み切った福井俊彦を世界で最も優れた中央銀行総裁と評価する記事を掲載した。(福井俊彦 フレッシュアイペディアより)
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福井俊彦から見た田波耕治
2008年3月、福田康夫内閣は財務省出身で日本銀行副総裁の武藤敏郎の総裁昇格案を国会に提示したが、3月12日に野党が過半数を占める参議院で不同意となった。これを受けて福田内閣は3月18日に同じく財務省出身で国際協力銀行総裁の田波耕治を日本銀行総裁に充てる人事案を新たに提出したが、3月19日の参議院本会議でまたも野党が田波総裁案を否決・不同意としたため、日本銀行総裁が不在という事態になった。こうした異常事態のなかで、3月19日には内閣から日本銀行副総裁に任命された白川方明が総裁職務代行者として指名され、翌3月20日、白川方明は副総裁就任後直ちに総裁職の代行を務めた。しかしながら、日銀総裁の空席による総裁代行の立場が長期間続くと、内外の経済問題への日銀の対処が難しくなる恐れが指摘された。(福井俊彦 フレッシュアイペディアより)
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福井俊彦から見た武藤敏郎
2008年3月、福田康夫内閣は財務省出身で日本銀行副総裁の武藤敏郎の総裁昇格案を国会に提示したが、3月12日に野党が過半数を占める参議院で不同意となった。これを受けて福田内閣は3月18日に同じく財務省出身で国際協力銀行総裁の田波耕治を日本銀行総裁に充てる人事案を新たに提出したが、3月19日の参議院本会議でまたも野党が田波総裁案を否決・不同意としたため、日本銀行総裁が不在という事態になった。こうした異常事態のなかで、3月19日には内閣から日本銀行副総裁に任命された白川方明が総裁職務代行者として指名され、翌3月20日、白川方明は副総裁就任後直ちに総裁職の代行を務めた。しかしながら、日銀総裁の空席による総裁代行の立場が長期間続くと、内外の経済問題への日銀の対処が難しくなる恐れが指摘された。(福井俊彦 フレッシュアイペディアより)
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福井俊彦から見た速水優
松下総裁の後任として日銀プロパーの速水優が就いた為、一時は福井総裁誕生の可能性が薄らいだが折りしも中央銀行の独立性の確保の為に新日銀法が制定され、大蔵省・日銀間のたすきがけ人事の慣行が廃止されることになり、新日銀法の制定に尽力すると同時に、行政・立法府との調整力のあった福井が再び総裁候補として浮上した。2003年、小泉総理官邸は複数の候補者のなかで日銀国際派エースでOECD副事務総長だった重原久美春を隠れた最有力候補にしていた(「選択」2003年6月号)が、結局、財界などからの支持を得た福井総裁の誕生となった。この時、イギリスのフィナンシャルタイムズ紙(2003年2月25日号)は「小泉の小心(Koizumi's Timidity)」と題する社説において、意中の人であった重原の総裁就任に抵抗した既成勢力の圧力に屈した小泉を批判した。直後にイラク戦争が発生し、国際情勢が混迷を極めていた中での就任となった。(福井俊彦 フレッシュアイペディアより)
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福井俊彦から見た重原久美春
松下総裁の後任として日銀プロパーの速水優が就いた為、一時は福井総裁誕生の可能性が薄らいだが折りしも中央銀行の独立性の確保の為に新日銀法が制定され、大蔵省・日銀間のたすきがけ人事の慣行が廃止されることになり、新日銀法の制定に尽力すると同時に、行政・立法府との調整力のあった福井が再び総裁候補として浮上した。2003年、小泉総理官邸は複数の候補者のなかで日銀国際派エースでOECD副事務総長だった重原久美春を隠れた最有力候補にしていた(「選択」2003年6月号)が、結局、財界などからの支持を得た福井総裁の誕生となった。この時、イギリスのフィナンシャルタイムズ紙(2003年2月25日号)は「小泉の小心(Koizumi's Timidity)」と題する社説において、意中の人であった重原の総裁就任に抵抗した既成勢力の圧力に屈した小泉を批判した。直後にイラク戦争が発生し、国際情勢が混迷を極めていた中での就任となった。(福井俊彦 フレッシュアイペディアより)