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福士加代子から見た1998年アジア競技大会
9月のワールドカップ陸上アテネ大会にアジア代表として出場。3000mで5位、5000mでは銅メダルを獲得。12月のドーハアジア大会女子10000mでは、31分29秒38の記録で同大会初優勝を果たす(3位は当時トヨタ車体所属の大南博美)。1998年バンコクアジア大会の川上優子以来、2大会ぶりの金メダルをもたらした。(福士加代子 フレッシュアイペディアより)
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福士加代子から見た全日本実業団対抗女子駅伝競走大会
12月に行われた、全日本実業団対抗女子駅伝大会では3区10kmの区間で快走、沿道の観客に対して福士は時折笑顔を見せながら走っていた。しかし、次の中継所に間もなく到着する終盤で、すぐ後ろを走っていた羽鳥智子(元第一生命保険)と足が絡まって転倒し、左膝を強打する。その後足をひきずりながら走り続け、区間賞を獲得したものの、膝の靱帯を切る大けがを負った。(福士加代子 フレッシュアイペディアより)
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福士加代子から見た2004年アテネオリンピックの日本選手団
6月4日の日本選手権、女子10000mではレース前半で福士が飛び出してから、その後独走となる。しかし終盤に入るとややペースが落ちてゆき、ゴール直前で2位の田中めぐみ(現姓:大島。元しまむら)や3位の弘山晴美(元資生堂)らに猛迫を受けるも辛うじて逃げ切り、31分32秒09のゴールタイムで優勝、初のオリンピック代表内定となった。その2日後、6月6日の女子5000mでも15分05秒07の記録で優勝を果たす。(福士加代子 フレッシュアイペディアより)
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福士加代子から見た世界陸上競技選手権大会
2月、福士の故郷で行われた青森冬季アジア大会で、膝のけがをおして最終聖火ランナーを務める。約半年近くはけがの治療に専念していたが、6月の日本選手権女子10000mでは、終盤スパートして独走、復活の優勝を果たした。その後、世界陸上選手権の長距離走代表として初出場を決める。(福士加代子 フレッシュアイペディアより)
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福士加代子から見た長居陸上競技場
1月27日に開催された大阪国際女子マラソンでは、スタート直後に長居陸上競技場を先頭で駆け出してから大阪城公園を出る30km付近まで、福士がハイペースで後続を大きく突き放し、一時は2位集団を2分以上引き離し独走する展開となった。しかし30km地点を過ぎた辺りから、スタミナ切れを起こして急激にペースダウン。その後34km過ぎでは優勝したマーラ・ヤマウチ(元セカンドウィンドAC)や2位の森本友(天満屋)らに抜かれると、35km以降からほとんどジョギング状態が続いて十数人の選手に次々と追い抜かれていく。それから福士はフラフラの状況で走り続ける中、さらに40kmを過ぎた長居陸上競技場へ入る手前の、ゴールまで残り570m付近では足がもつれて1度転倒、そして競技場へ入ってからは3度も転倒してしまう。それでも2時間40分台のタイムでようやくゴールラインに辿り着いたが、着順は結局19位と惨敗に終わった。(福士加代子 フレッシュアイペディアより)
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福士加代子から見た青森県立五所川原工業高等学校
青森県北津軽郡板柳町出身(大相撲元小結・高見盛の振分親方は同郷の先輩でもある)。青森県立五所川原工業高等学校機械科を卒業後、2000年にワコールに入社。(福士加代子 フレッシュアイペディアより)
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福士加代子から見た2005年世界陸上競技選手権大会
6月の日本選手権では女子5000m・10000m共に優勝を果たし、世界陸上ヘルシンキ大会代表に選出。同大会には5000mと10000mの2種目で出場するも、10000mでは前回に続き11位に留まり、5000mは決勝進出を果たすものの12位、2種目共に8位内の入賞ラインには至らなかった。(福士加代子 フレッシュアイペディアより)
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福士加代子から見た第96回日本陸上競技選手権大会
前回の北京五輪同様に、長距離走種目でロンドン五輪を目指し日本選手権に出場。6月8日の女子10000mでは、残り1000m辺りまで先頭を引っ張ったが、その後すぐ後ろについていた吉川美香(パナソニック)のラストスパートには引き離され、優勝した吉川に次ぐ2位に甘んじたが、A標準記録突破の31分43秒25でフィニッシュ。2日後の6月10日の女子5000mも優勝の新谷仁美(豊田自動織機)についていけず2位(15分25秒74)に敗れたが、翌6月11日の日本陸連理事会でロンドン五輪代表に選出される。なおオリンピックで日本女子の長距離走種目で3大会連続代表選出は、弘山晴美と並ぶ史上二人目の快挙達成となった。(福士加代子 フレッシュアイペディアより)