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福留功男から見たズームイン!!朝!
『アメリカ横断ウルトラクイズ』が年一回のレギュラー番組となり、人気番組に成長するとともに福留の知名度もさらに上昇、先輩である徳光和夫の後を継いで1988年より『ズームイン!!朝!』の第2代総合司会にも就任。自らが災害・事故・事件現場に積極的に赴き、また、番組制作・進行・構成にも深く関与、全国の系列各局との密接な連携などを行った。『ズームイン!!朝!』の視聴率が20%を超えたのも、福留時代だった。日テレアナウンサー時代は、徳光との「トクさん・トメさん」コンビで、バラエティ番組から報道番組、選挙特別番組まで数多くの番組に出演。(福留功男 フレッシュアイペディアより)
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福留功男から見た香美市立やなせたかし記念館
福留が故郷の高知県香美市に2001年から続けた寄付をもとに、2009年4月11日、「香北の自然公園」がオープンされ、開園の式典には福留も出席した。市が香美市立やなせたかし記念館(通称「アンパンマンミュージアム」)に隣接して整備したもので、公園には福留のキャラクターが入った記念碑もある。広さは約3ヘクタールで、市花のアジサイなど約70種類1万4000本が植栽されている。歩道の舗装を市が850万円かけて今後行うほかは、用地取得から植栽まで全て福留の寄付金で賄ったが、寄付額は福留本人の意向で非公表である。(福留功男 フレッシュアイペディアより)
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福留功男から見たブロードキャスター
フリー転身のきっかけは、知り合いの番組制作会社社長から会食に誘われたことである。福留はいつもの二人きりでのざっくばらんな食事の席かと思っていたところ、場違いとも思える座敷に通され中に入ると、既にTBSの役員クラスの人物が二人ほどいたといい、その席で「ブロードキャスター」の司会就任の打診を初めて受けたという。しかし番組開始までもう時間がなく、日本テレビを退社するにもその後の残務整理などを行うには十分な時間がなかったことから、福留は即答できず、一旦持ち帰りとし、局に帰って生みの親ともいえる当時日本テレビの取締役であった佐藤に相談したところ、「俺はそっちのほうがいいと思うよ」と背中を押す返事を貰った。そして佐藤は、「ちょっと待ってろ」と福留に告げると急いで局の全役員に連絡をして福留の退社に関する話を取り付け、最終的に「ズームイン」の出演もフリーの立場で継続することを条件に円満退社が認められる運びとなったという。福留の「ブロードキャスター」初登場が放送開始から半年遅れなのはこのためである。(福留功男 フレッシュアイペディアより)
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福留功男から見たアメリカ横断ウルトラクイズ
しかし、1977年、特別番組として『史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ!!』の企画が社内で持ち上がる。収録の日程上、長期間海外出張できる余裕のあるアナウンサーが必要になり、レギュラーを持っていない福留に鉢が回ってきた。1986年、ウルトラクイズの司会が評価され、第23回ギャラクシー賞・選奨を受賞。ウルトラクイズがレギュラー化した後に、高校生から「アメリカ横断ウルトラクイズに参加したい」という手紙を多くもらい、その手紙に応えて福留が企画・誕生させた番組が、『全国高等学校クイズ選手権』である。(福留功男 フレッシュアイペディアより)
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福留功男から見たボーイング747-400
2011年3月3日、全日空(ANA)の国際線25周年とボーイング747-400国際線機材の引退フライト(成田→グアム間)を記念して、サプライズゲストとして機内アナウンスに登場。機内では福留のアナウンスが流れたため、「『アメリカ横断ウルトラクイズ』の機内ペーパークイズが行われ、ブーブーゲートで結果発表で不合格で成田へ強制送還されるのでは」とほとんどの搭乗客は不安がっていたという。実際に福留は、25年前のグアム線初便フライトに搭乗していた。(福留功男 フレッシュアイペディアより)