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奈良原浩から見た福留孝介
6月に、金銭トレードにより中日ドラゴンズに移籍。中日では川相昌弘、デニー友利に続く「一芸に秀でたベテラン選手」として期待され、主に後半の代走や二塁・三塁守備固め要員として出場。以後、閉幕まで出場選手登録を外れることなく、随所で活躍し優勝に貢献した。中日移籍後の初打点は、リーグ優勝が決定した10月10日の対読売ジャイアンツ戦で延長12回表、福留孝介の決勝タイムリー、タイロン・ウッズの満塁ホームランの後に放った適時打であった。同年シーズン限りで現役を引退し、二軍内野守備走塁コーチに就任した。一塁コーチャーを務めたのち、より二軍野手コーチとなった。2011年10月6日付けで退団が発表された。2012年より、最初に所属した埼玉西武ライオンズの一軍守備走塁コーチに就任した。(奈良原浩 フレッシュアイペディアより)
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井上一樹から見た福留孝介
、中日の選手会長を4歳年下の井端弘和より受け継ぐ。井上はファンサービスに熱心に取り組み、「福留孝介デー」などといった企画の実行にこぎつけた(後述)。8月15日の対広島東洋カープ13回戦で、プロ野球史上411人目となる通算1000試合出場を達成した。8月30日の対阪神15回戦(阪神甲子園球場)では劣勢の中、9回表2死から代打で登場し、藤川球児から高めの球を捕らえて値千金となる同点本塁打を放った。その裏に右翼手として守備に就いた時、阪神ファンから野次を浴びたが、それは本人にとって人生で経験のしたことのないほど凄まじいものであったという。試合は結局引き分けに終わったが、中日はマジックを1減らし、勝ちに等しい引き分けとなり、この年のペナントレースを大きく左右する本塁打となった。シーズン全体では規定打席には足りないものの勝負強さを発揮し、2年連続で3割と2桁本塁打を達成するなど、優勝に大きく貢献した。(井上一樹 フレッシュアイペディアより)
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上田利治から見た福留孝介
ドラフト1位重複の抽選に弱かった。特に阪急・オリックス時代には、単独指名の年と、の伊藤敦規(日本ハム球団との抽選)やの酒井勉(ロッテ球団との抽選)を除いて、に石毛宏典(西武)、は金村義明(近鉄バファローズ)、は野口裕美(西武)、は高野光(ヤクルト)、は清原和博(西武)、は田島俊雄(南海ホークス)、は野茂英雄(近鉄)とことごとく外している。それらの選手の「外れ1位」も活躍したのは野口の外れ1位・山沖之彦ぐらいであった。後年、日本ハム監督時代にもに福留孝介(近鉄・入団拒否)、に松坂大輔(西武)を1位重複で外している。2位重複の抽選でもに、司会者の手違いで順番が先になったにもかかわらず新沼慎二(横浜)を外している。(上田利治 フレッシュアイペディアより)
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坪井智哉から見た福留孝介
社会人野球の東芝時代は、主に1番打者として活躍し、第51回東京スポニチ大会で打率.476を記録して新人王を獲得する。第23回社会人野球日本選手権大会でチームは準決勝で敗退するが、坪井は14打数9安打、打率.634を記録して首位打者賞と大会優秀選手賞(外野手部門)に選ばれている。この年(1996年)の暮れに社会人ベストナインも獲得している。翌1997年の第24回社会人野球日本選手権大会では準決勝で三菱重工神戸に敗れるが、2年連続で大会優秀選手賞(外野手部門)に選ばれている。同年、第19回アジア野球選手権大会に出場する日本代表に選ばれた(坪井以外に選ばれた選手に福留孝介・二岡智宏らがいる)。練習では金属バットを使用せず木製バットを使用していた。坪井は「金属バットはどこに当たっても打球がポンポン飛ぶ。それじゃ、今まで培ってきた技術が失われてしまうから試合以外では使わないようにした」と語っている。(坪井智哉 フレッシュアイペディアより)
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