157件中 51 - 60件表示
  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見たケルビン・ヒメネス

    通算2000安打:2012年4月28日、対東北楽天ゴールデンイーグルス4回戦(日本製紙クリネックススタジアム宮城) - 1回表にケルビン・ヒメネスから右前適時打。史上39人目。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見た佐野有美

    佐野有美 『歩き続けよう』 ※2012年8月3日より使用。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見た石本努

    2005年9月19日の西武戦(札幌ドーム)試合前に新庄剛志、森本稀哲、小谷野栄一、石本努との5人で同じかぶりもの(新庄の顔を模った仮面で「5人のツヨシくん」と命名)を被ってシートノックを受ける。2006年シーズンオフには、札幌グランドホテルで開催された選手ディナーショーに出演し自慢のノドを披露し、球団のファン層拡大に寄与した。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見たテリー・ブロス

    ヤクルトに入団後、外野手としての練習を始める。1年目のから一軍で出場し、同年6月21日の広島東洋カープ戦(広島市民球場)にて一塁手としてプロ初出場、初打席初本塁打を打ったほか、9月9日の読売ジャイアンツ(巨人)戦(東京ドーム)ではテリー・ブロスのノーヒットノーラン達成を好捕で助けている。からは中軸を打ち、守備力でもヤクルトの3度の日本シリーズ優勝に貢献した。にはチーム2位の21本塁打を記録し、には25本塁打、自己最多の90打点、OPS.912という成績を残して初のベストナインに選ばれ、7月1日の横浜ベイスターズ戦(松本市野球場)では史上56人目のサイクル安打を達成した(後述)。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見た野村克則

    1994年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズに3位指名され、入団した。当時のヤクルトの監督だった野村克也は、息子の野村克則(当時、明治大学3年)の試合を観戦した際に、対戦相手である法政大の稲葉のプレー(この試合で本塁打を打っている)を目にとめ、ドラフト当日3位の枠が空いていてその時の野村監督の「あの法政の左はどうなっとんのや」という発言によって獲得に至った。野村曰く、「後で聞いたらどこからも誘いはなかった」、とする一方で、稲葉本人は「近鉄バファローズから指名される予定だった」「ヤクルトが指名しなければもっと早い段階で梨田昌孝監督のもとで野球をしていたかもしれない」と語っている。「枠が空いていたヤクルトが稲葉を指名することとなり、結果プロになりたかった稲葉は大変感謝していた」。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見た鈴木秀範

    中京高校(現・中京大学附属中京高等学校)3年夏の愛知大会決勝で、そのイチローのいた愛知工業大学名電高等学校に5?4で敗れた。卒業後は法政大学に進んだ。法政大では1年春から試合に出ており、先発出場時は中軸を打つこともあった。しかし、2学年上に当時四番を打つ鈴木秀範一塁手がおり、また、故障を抱えていたこともあり、一塁手に定着したのは3年春(1993年)からであった。特に2年春()は左翼手としての先発起用も検討されていたが、故障のため不出場に終わった。法政大はこの1992年春のシーズンでは、最終カードである明治大学との直接対決で勝ち点を挙げた方が優勝という展開に持ち込んでおり、それだけに法政大のファンは稲葉の欠場を残念がった(結局、明治大が2勝1敗で法政大を下して完全優勝を果たした)。(3年時)の春から一塁手としてレギュラーに定着。同年の第22回日米大学野球の代表に選ばれた。4年時には四番打者として法政大を秋季リーグ戦優勝に導いた。東京六大学野球の春季リーグでのベストナイン、第23回日米大学野球の代表にも選ばれた。リーグ通算成績は86試合出場、307打数86安打、打率.280、本塁打6、打点50であった。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見た岸孝之

    通算200本塁打:2008年9月27日、対埼玉西武ライオンズ24回戦(札幌ドーム) - 1回裏に岸孝之から。史上91人目。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見た山田久志

    この年は稲葉にとって記録ラッシュの年となった。4月28日の楽天戦(日本製紙クリネックススタジアム宮城)にて、出場1976試合目で史上39人目となる通算2000安打を達成。その6日後の5月4日にはヤクルトに同期入団の宮本慎也も通算2000安打を達成し、奇しくも宮本も出場1976試合目での達成であり、同年に同期入団選手が同試合数で通算2000安打を達成したのはそれぞれ史上初のことであった。5月4日のオリックス・バファローズ戦では史上58人目となる通算250本塁打、5月19日の広島東洋カープ戦では史上11人目となる通算400二塁打を達成。5月23日には札幌ドームにて「稲葉篤紀2000本安打メモリアルナイター」が開催され、試合前のセレモニーでは山田久志名球会理事よりブレザーが贈呈され、相手チームのDeNAからは元同僚の森本稀哲より花束が贈呈された。この日の試合、稲葉は3打数2安打1打点と活躍し、自らのメモリアルナイターを勝利で飾った。5月31日のヤクルト戦では史上44人目となる通算2000試合出場に到達。8月8日のソフトバンク戦では史上38人目となる通算1000打点、9月27日のロッテ戦では13年連続となる2桁本塁打をそれぞれ達成した。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見た淡口憲治

    、背番号をヤクルト時代の41に変更。この年より日本ハム一軍打撃コーチに就任した淡口憲治の指導のもと長打力の強化に取り組み、自己3番目の打率.307、打点75と自己最多の26本塁打を記録、チームのリーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献、プレーオフでは斉藤和巳(福岡ソフトバンクホークス)から優勝を決めるサヨナラ適時打、日本シリーズではMVPを獲得するなど勝負強さを見せつけた。日本シリーズMVPにはスポンサーから賞品として自動車が贈呈されたが、翌年から賞品が廃止されたため最後の賞品獲得者となった。この年は主に五番打者を務めたが、秋のアジアシリーズではフェルナンド・セギノールの欠場により四番を打った。打撃ではヤクルト時代以来5年振りのベストナイン、守備面でも初のゴールデングラブ賞を受賞した(ともに、以後まで4年連続)。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見た内川聖一

    、監督の梨田昌孝より直々に主将の座に就くことを命じられた。第2回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出され、四番・指名打者や代打として9試合中8試合に出場した。成績は22打数7安打、打率.318。同大会の決勝戦の10回表には、先頭の内川聖一が安打で出塁した後、自身3年ぶりとなる犠牲バントを決めた。同大会ではイチローが不調であり、日本代表選手の中で唯一の先輩であった稲葉はイチローが凡退した後に、ベンチで励ましの言葉を度々駆けていて、メンタル面でイチローを陰で支えていた。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

157件中 51 - 60件表示

「稲葉篤紀」のニューストピックワード