157件中 61 - 70件表示
  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見た西岡剛 (内野手)

    守備では右翼手として2006年から2009年までゴールデングラブ賞を4年連続で獲得している。最多補殺を3度記録しているが、遠投は80メートル程度でプロの外野手としては肩は強くない。本人は「もともと一塁手だった為、大きく腕を振ることができないが、ボールを捕ってから投げるまでが速いため強肩に見えるのではないか」と話している。ポジショニングも良く、2010年4月27日のオリックス・バファローズ戦の8回表の守備においては、右翼手前に転がってきた安打性の打球を素早く一塁に送球し、打者走者をアウトにした(所謂「ライトゴロ」)。打者だった塩崎真は「普通はあんな場所、守らない。安打1本、損した」と述べた(ただしこの場面は、試合終盤で守備側のリードが僅か1点であり、かつ二死で走者が二塁に居たため、外野手が前進守備を敷く体制を取るのは珍しい事ではない)。2006年8月13日の千葉ロッテマリーンズ戦では右翼フェンス上部に当たりそうな打球に対し捕球の体勢を取って、二塁走者の西岡剛のスタートを遅らせて得点を阻止するトリックプレーを行った。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見た駒田徳広

    初打席本塁打を記録した選手で通算2000安打を達成したのは、高木(上記)、駒田徳広、稲葉の3人のみ。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見た札幌市

    は開幕を2000年以来12年ぶりとなる2番で迎え、プロ18年目にして初となる開幕戦における3安打猛打賞を記録した。開幕からは6戦連続で2番に座ったが、その後は主に5番打者として活躍し、打率はリーグ7位の.290、得点圏打率はリーグ6位の.306、長打率はチームトップの.421を記録し、チーム3年ぶりとなるリーグ優勝に貢献した。守備面ではレギュラーシーズンでは一塁手または指名打者としての出場のみで、外野手としての出場はプロ入り後初めてゼロとなっていたが、日本シリーズ第2戦にて、中田翔が死球を受け4回裏に途中交代した際、それまで稲葉が守っていた一塁手にマイカ・ホフパワーが入った為、4回裏よりこの年初めて右翼手を守った。その他にも日本シリーズでは、稲葉は打率.391で首位打者に輝くなどの活躍を魅せ、敢闘選手賞を獲得した。この年は2009年以来3年ぶりにゴールデングラブ賞を獲得したが、一塁手部門としては自身初となった。パ・リーグの選手としては内野・外野の両方でゴールデングラブ賞を獲得したのは西村徳文(1985年二塁手部門、1990年外野手部門で獲得)以来であり、一塁手部門としては初。外野手から内野手の順でゴールデングラブ賞を受賞したのは、高田繁に続き2人目である。11月15日に札幌市在住で元モデルの怜奈と再婚。12月4日から内野手登録となった。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見た明治大学

    1994年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズに3位指名され、入団した。当時のヤクルトの監督だった野村克也は、息子の野村克則(当時、明治大学3年)の試合を観戦した際に、対戦相手である法政大の稲葉のプレー(この試合で本塁打を打っている)を目にとめ、ドラフト当日3位の枠が空いていてその時の野村監督の「あの法政の左はどうなっとんのや」という発言によって獲得に至った。野村曰く、「後で聞いたらどこからも誘いはなかった」、とする一方で、稲葉本人は「近鉄バファローズから指名される予定だった」「ヤクルトが指名しなければもっと早い段階で梨田昌孝監督のもとで野球をしていたかもしれない」と語っている。「枠が空いていたヤクルトが稲葉を指名することとなり、結果プロになりたかった稲葉は大変感謝していた」。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見たトレイ・ヒルマン

    ヤクルト時代の野村克也、若松勉、日本ハムではトレイ・ヒルマン、梨田昌孝、栗山英樹と、「今まで自分が所属した時のチーム監督5人すべてをリーグ制覇で胴上げした」と語っている。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見た日米大学野球選手権大会

    中京高校(現・中京大学附属中京高等学校)3年夏の愛知大会決勝で、そのイチローのいた愛知工業大学名電高等学校に5?4で敗れた。卒業後は法政大学に進んだ。法政大では1年春から試合に出ており、先発出場時は中軸を打つこともあった。しかし、2学年上に当時四番を打つ鈴木秀範一塁手がおり、また、故障を抱えていたこともあり、一塁手に定着したのは3年春(1993年)からであった。特に2年春()は左翼手としての先発起用も検討されていたが、故障のため不出場に終わった。法政大はこの1992年春のシーズンでは、最終カードである明治大学との直接対決で勝ち点を挙げた方が優勝という展開に持ち込んでおり、それだけに法政大のファンは稲葉の欠場を残念がった(結局、明治大が2勝1敗で法政大を下して完全優勝を果たした)。(3年時)の春から一塁手としてレギュラーに定着。同年の第22回日米大学野球の代表に選ばれた。4年時には四番打者として法政大を秋季リーグ戦優勝に導いた。東京六大学野球の春季リーグでのベストナイン、第23回日米大学野球の代表にも選ばれた。リーグ通算成績は86試合出場、307打数86安打、打率.280、本塁打6、打点50であった。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見た東北地方太平洋沖地震

    2011年は、シーズン開幕前に発生した東北地方太平洋沖地震による被災者への配慮として、レギュラーシーズン中は稲葉ジャンプが行われなかったが、2011年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズのファーストステージ(西武戦)で解禁された。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見た東京六大学野球連盟

    中京高校(現・中京大学附属中京高等学校)3年夏の愛知大会決勝で、そのイチローのいた愛知工業大学名電高等学校に5?4で敗れた。卒業後は法政大学に進んだ。法政大では1年春から試合に出ており、先発出場時は中軸を打つこともあった。しかし、2学年上に当時四番を打つ鈴木秀範一塁手がおり、また、故障を抱えていたこともあり、一塁手に定着したのは3年春(1993年)からであった。特に2年春()は左翼手としての先発起用も検討されていたが、故障のため不出場に終わった。法政大はこの1992年春のシーズンでは、最終カードである明治大学との直接対決で勝ち点を挙げた方が優勝という展開に持ち込んでおり、それだけに法政大のファンは稲葉の欠場を残念がった(結局、明治大が2勝1敗で法政大を下して完全優勝を果たした)。(3年時)の春から一塁手としてレギュラーに定着。同年の第22回日米大学野球の代表に選ばれた。4年時には四番打者として法政大を秋季リーグ戦優勝に導いた。東京六大学野球の春季リーグでのベストナイン、第23回日米大学野球の代表にも選ばれた。リーグ通算成績は86試合出場、307打数86安打、打率.280、本塁打6、打点50であった。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見たすぽると!

    、2月放送のすぽると!で、現役プロ野球選手100人が選ぶ『この選手が凄い・バッター編』の「勝負強さ部門」1位、「バットコントロール部門」4位、「外野守備部門」2位にそれぞれ選ばれた。シーズンでは5月まで打率.227、OPS.688と不振に陥り、一時は5年ぶりに七番で出場するなど苦しんだ。6月以降は打率.316、OPS.870と調子を戻したが、シーズンを通しては5年振りに打率3割を切った。また、この年は高橋信二の頭部死球による離脱や陽岱鋼の台頭によって外野手としての出場は減り、一塁手として34試合の出場に留まった。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

  • 稲葉篤紀

    稲葉篤紀から見た東京ヤクルトスワローズ

    1994年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズに3位指名され、入団した。当時のヤクルトの監督だった野村克也は、息子の野村克則(当時、明治大学3年)の試合を観戦した際に、対戦相手である法政大の稲葉のプレー(この試合で本塁打を打っている)を目にとめ、ドラフト当日3位の枠が空いていてその時の野村監督の「あの法政の左はどうなっとんのや」という発言によって獲得に至った。野村曰く、「後で聞いたらどこからも誘いはなかった」、とする一方で、稲葉本人は「近鉄バファローズから指名される予定だった」「ヤクルトが指名しなければもっと早い段階で梨田昌孝監督のもとで野球をしていたかもしれない」と語っている。「枠が空いていたヤクルトが稲葉を指名することとなり、結果プロになりたかった稲葉は大変感謝していた」。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

157件中 61 - 70件表示

「稲葉篤紀」のニューストピックワード