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    稲葉篤紀から見た山田久志

    このシーズンは満40歳という節目を迎える稲葉にとって記録ラッシュの年となった。4月28日の楽天戦(日本製紙クリネックススタジアム宮城)にて、出場1976試合目で史上39人目となる通算2000安打を達成。その6日後の5月4日にはヤクルトに同期入団の宮本慎也も通算2000安打を達成し、奇しくも宮本も出場1976試合目での達成であり、同年に同期入団選手が同試合数で通算2000安打を達成したのはそれぞれ史上初のことであった。5月4日のオリックス・バファローズ戦では史上58人目となる通算250本塁打、5月19日の広島戦では史上11人目となる通算400二塁打を達成。5月23日には札幌ドームにて「稲葉篤紀2000本安打メモリアルナイター」が開催され、試合前のセレモニーでは山田久志名球会理事よりブレザーが贈呈され、相手チームのDeNAからは元同僚の森本稀哲より花束が贈呈された。この日の試合、稲葉は3打数2安打1打点と活躍し、自らのメモリアルナイターを勝利で飾った。5月31日のヤクルト戦では史上44人目となる通算2000試合出場に到達。8月8日のソフトバンク戦では史上38人目となる通算1000打点、9月27日のロッテ戦では13年連続となる2桁本塁打をそれぞれ達成した。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

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    稲葉篤紀から見たクイーン (バンド)

    QUEEN 『I Was Born To Love You』 ※2008年より現役最終2014年まで得点圏に走者がいる場面のみ使用。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

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    稲葉篤紀から見た葛西紀明

    スキージャンプの葛西紀明とは、1972年生まれの同学年で、オフにはゴルフをするなど、親交がある。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

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    稲葉篤紀から見た淡口憲治

    背番号をヤクルト時代の41に変更。この年より日本ハム一軍打撃コーチに就任した淡口憲治の指導のもと長打力の強化に取り組み、自己3番目の打率.307、打点75と自己最多の26本塁打を記録、チームのリーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献、プレーオフでは斉藤和巳(福岡ソフトバンクホークス)から優勝を決めるサヨナラ適時打、日本シリーズではMVPを獲得するなど勝負強さを見せつけた。日本シリーズMVPにはスポンサーから賞品として自動車が贈呈されたが、翌年から賞品が廃止されたため最後の賞品獲得者となった。この年は主に五番打者を務めたが、秋のアジアシリーズではフェルナンド・セギノールの欠場により四番を打った。打撃ではヤクルト時代以来5年振りのベストナイン、守備面でも初のゴールデングラブ賞を受賞した(ともに、以後まで4年連続)。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

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    稲葉篤紀から見た光永亮太

    光永亮太 『Always』 ※2013年に使用。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

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    稲葉篤紀から見た内川聖一

    監督の梨田昌孝より直々に主将の座に就くことを命じられた。開幕前の3月に開催された第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出された。同大会では四番・指名打者や代打として9試合中8試合に出場した。成績は22打数7安打、打率.318。同大会の決勝戦の10回表には、先頭の内川聖一が安打で出塁した後、自身3年ぶりとなる犠牲バントを決めた。同大会ではイチローが不調であり、日本代表選手の中で唯一の先輩であった稲葉はイチローが凡退した後に、ベンチで励ましの言葉を度々駆けていて、メンタル面でイチローを陰で支えていた。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

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    稲葉篤紀から見たプロ野球コーチ

    稲葉 篤紀(いなば あつのり、1972年8月3日 - )は、愛知県北名古屋市出身の元プロ野球選手(外野手・内野手、左投左打)・コーチ・監督。現役引退した翌2015年より北海道日本ハムファイターズのスポーツ・コミュニティ・オフィサー (SCO) を務めている。2017年から侍ジャパンの監督を務める。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

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    稲葉篤紀から見た札幌市

    オフの11月15日に札幌市在住で元モデルの怜奈と再婚。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

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    稲葉篤紀から見た明治大学

    1994年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズに3位指名され、入団した。当時のヤクルトの監督だった野村克也は、息子の野村克則(当時、明治大学3年)の試合を観戦した際に、対戦相手である法政大の稲葉のプレー(この試合で本塁打を打っている)を目にとめ、ドラフト当日3位の枠が空いていてその時の野村監督の「あの法政の左はどうなっとんのや」という発言によって獲得に至った。野村曰く、「後で聞いたらどこからも誘いはなかった、枠が空いていたヤクルトが稲葉を指名することとなり、結果プロになりたかった稲葉は大変感謝していた」。とする一方で、稲葉本人は「近鉄バファローズから指名される予定だった」「ヤクルトが指名しなければもっと早い段階で梨田昌孝監督のもとで野球をしていたかもしれない」と語っている。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

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    稲葉篤紀から見た東京六大学野球連盟

    中京大中京高校3年夏の愛知大会決勝で、そのイチローのいた愛工大名電高校に雨天再試合の結果,5-3で敗れた。卒業後は法政大学経営学部に進んだ。法政大では1年春から試合に出ており、先発出場時は中軸を打つこともあった。しかし、3学年上に当時四番を打つ鈴木秀範一塁手がおり、また、故障を抱えていたこともあり、一塁手に定着したのは3年春(1993年)からであった。特に2年春()は左翼手としての先発起用も検討されていたが、故障のため不出場に終わった。法政大はこの1992年春のシーズンでは、最終カードである明治大学との直接対決で勝ち点を挙げた方が優勝という展開に持ち込んでおり、それだけに法政大のファンは稲葉の欠場を残念がった(結局、明治大が2勝1敗で法政大を下して完全優勝を果たした)。(3年時)の春から一塁手としてレギュラーに定着。同年の第22回日米大学野球の代表に選ばれた。4年時には四番打者として法政大を秋季リーグ戦優勝に導いた。東京六大学野球の春季リーグでのベストナイン、第23回日米大学野球の代表にも選ばれた。リーグ通算成績は86試合出場、307打数86安打、打率.280、本塁打6、打点50であった。稲葉篤紀 フレッシュアイペディアより)

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