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    立命館大学から見た元老

    西園寺記念館の名称は、最後の元老にして自由主義者としても知られる西園寺公望公にちなむものである。これは学校法人立命館が、1940年(昭和15年)の「学祖敬仰決議」以来、西園寺公望を学祖として敬仰しており、西園寺公のもつ国際性が国際関係学部の基本学舎の名称にふさわしいと考えられたからである。現在の立命館大学は、1900年(明治33年)に中川小十郎らによって設立された京都法政学校が、西園寺公望が1869年(明治2年)に京都御所内の私邸に開設した私塾立命館からその名称を受け継いで発展したものである。その後立命館学園は、西園寺公望から私塾立命館の「名称と精神」を継承するものと認められるとともに、直接間接の支援を受けて今日の発展に至っており、こうしたことが西園寺記念館の命名の背景にある。西園寺記念館の竣工と命名について学校法人立命館総長・谷岡武雄は次のような言葉を銘板に刻み学生に送っている。立命館大学 フレッシュアイペディアより)

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    立命館大学から見た久邇宮邦彦

    初代中川会館は、1935年に立命館学園創立35周年と学園創設者・中川小十郎の長寿を祝って広小路校地に建設された。もともと立命館大学校友会評議員会は、盛大な記念祝賀会や中川小十郎の銅像建設などを予定していた。これを知った中川から、銅像建設や祝賀会に資金をまわすより、学園の施設を充実してほしいと要望があり、1935年1月12日の校友大会で「中川会館」の建設が決定された。中川会館の建設費用は寄付金によって賄われ、教職員、学生・生徒、学園縁故者の協力で総額73,970円81銭が集まった。会館は1936年5月に着工され、同年12月13日に竣工。鉄筋三階建で陸屋根造り、モルタル吹き付けの白亜の外壁に、腰は人造石洗出で仕上げられた。建坪は85坪・280m2(延300坪・990m2)で、地階は学生控室・食堂にあてられ、存心館に通じる地下通路があった。1階部分は出版部、職員室、学生研究室、2階は学長室、法学部研究室、文学科研究室、予科研究室、高等商業科研究室、3階は総長公室、校友集会室、特別講義室、応接室にあてられた。記念室には久邇宮邦彦王殿下から中川総長に下賜された自作の詩の御書と銅製花瓶、西園寺公望から寄贈された書、白川義則大将寄贈の天壌無窮の銘ある花瓶、総長が明治天皇御聖像に奉献された靖広作の神剣や師の御霊が陳列されたほか尾竹竹坡画伯の風俗画、大理石でできた西園寺公の肖像などが飾られていた。竣工式前日に西園寺公望から送られた「南天」、「山梔子」各30株ずつが会館玄関脇などに植樹された。立命館大学 フレッシュアイペディアより)

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    立命館大学から見た川口清史

    2007年にコミュニケーションマーク「R」が制定されたのと同時に、同学のスローガン・タグラインとして、「+R 未来を生み出す人になる。」が制定された。これにあわせて毎年、川口清史現総長と同学の卒業生が京都の名所旧跡で語り合う、と言う内容のイメージ広告が、首都圏・近畿圏の鉄道ターミナル駅や新聞に掲載された。立命館大学 フレッシュアイペディアより)

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    立命館大学から見た足利尊氏

    現在の「衣笠キャンパス」周辺は、金閣寺、龍安寺、仁和寺、等持院などが点在する京都屈指の観光名所として知られる。キャンパス北側にはこれら名刹を結ぶ観光道路「きぬかけの路」が通る。中でも隣接する等持院の墓地には、室町幕府将軍の足利尊氏、足利義量および足利義勝、映画監督の牧野省三や衣笠貞之助、画家・山元春挙、木島桜谷、役者・尾上松之助、学園創立者・中川小十郎が眠っている。立命館大学 フレッシュアイペディアより)

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    立命館大学から見た足利義満

    1224年(元仁元年)、西園寺公経が西園寺と北山第(山荘)を建てた。14世紀末、室町幕府三代将軍・足利義満が、西園寺家から北山第を譲り受けたが、義満の北山第は、西は衣笠山、東は天神川、南は衣笠総門町あたりまで含む広大な敷地であった。北山第が足利義満に譲られた後、西園寺家は再び近くに邸宅を構え、それは15世紀半ばまで衣笠山南麓に存在したとされる。1939年(昭和14年)、立命館大学が現在の衣笠キャンパスの開発に着手したところ、地下約90センチメートル(三尺)の位置から約300年前のものと思われる多数の屋根瓦片が発掘され、屋根瓦には西園寺家の紋章が確認された。さらなる調査の結果、太政大臣・西園寺公経邸のものと推定されるに至ったことから、現在の衣笠キャンパス一帯には、西園寺家の邸宅が建っていたと考えられている, , ,。立命館大学 フレッシュアイペディアより)

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    立命館大学から見た堀田庄三

    敷地内には、かつて『駿河台邸』と呼ばれた西園寺邸(東京都千代田区神田)の庭園にあった石灯籠と庭石が寄贈され飾られているほか、館内ロビーには、名称の由来となった西園寺のレリーフ塑像(高さ67cm)が飾られている。このレリーフは、日展評議員議員で京都教育大学名誉教授の杉村尚によるもので、西園寺記念館の竣工を記念して制作されたものである。また記念館定礎石の題字は、住友銀行名誉会長の堀田庄三によって揮毫されたものである。立命館大学 フレッシュアイペディアより)

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    立命館大学から見た尾竹竹坡

    初代中川会館は、1935年に立命館学園創立35周年と学園創設者・中川小十郎の長寿を祝って広小路校地に建設された。もともと立命館大学校友会評議員会は、盛大な記念祝賀会や中川小十郎の銅像建設などを予定していた。これを知った中川から、銅像建設や祝賀会に資金をまわすより、学園の施設を充実してほしいと要望があり、1935年1月12日の校友大会で「中川会館」の建設が決定された。中川会館の建設費用は寄付金によって賄われ、教職員、学生・生徒、学園縁故者の協力で総額73,970円81銭が集まった。会館は1936年5月に着工され、同年12月13日に竣工。鉄筋三階建で陸屋根造り、モルタル吹き付けの白亜の外壁に、腰は人造石洗出で仕上げられた。建坪は85坪・280m2(延300坪・990m2)で、地階は学生控室・食堂にあてられ、存心館に通じる地下通路があった。1階部分は出版部、職員室、学生研究室、2階は学長室、法学部研究室、文学科研究室、予科研究室、高等商業科研究室、3階は総長公室、校友集会室、特別講義室、応接室にあてられた。記念室には久邇宮邦彦王殿下から中川総長に下賜された自作の詩の御書と銅製花瓶、西園寺公望から寄贈された書、白川義則大将寄贈の天壌無窮の銘ある花瓶、総長が明治天皇御聖像に奉献された靖広作の神剣や師の御霊が陳列されたほか尾竹竹坡画伯の風俗画、大理石でできた西園寺公の肖像などが飾られていた。竣工式前日に西園寺公望から送られた「南天」、「山梔子」各30株ずつが会館玄関脇などに植樹された。立命館大学 フレッシュアイペディアより)

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    立命館大学から見た明治天皇

    初代中川会館は、1935年に立命館学園創立35周年と学園創設者・中川小十郎の長寿を祝って広小路校地に建設された。もともと立命館大学校友会評議員会は、盛大な記念祝賀会や中川小十郎の銅像建設などを予定していた。これを知った中川から、銅像建設や祝賀会に資金をまわすより、学園の施設を充実してほしいと要望があり、1935年1月12日の校友大会で「中川会館」の建設が決定された。中川会館の建設費用は寄付金によって賄われ、教職員、学生・生徒、学園縁故者の協力で総額73,970円81銭が集まった。会館は1936年5月に着工され、同年12月13日に竣工。鉄筋三階建で陸屋根造り、モルタル吹き付けの白亜の外壁に、腰は人造石洗出で仕上げられた。建坪は85坪・280m2(延300坪・990m2)で、地階は学生控室・食堂にあてられ、存心館に通じる地下通路があった。1階部分は出版部、職員室、学生研究室、2階は学長室、法学部研究室、文学科研究室、予科研究室、高等商業科研究室、3階は総長公室、校友集会室、特別講義室、応接室にあてられた。記念室には久邇宮邦彦王殿下から中川総長に下賜された自作の詩の御書と銅製花瓶、西園寺公望から寄贈された書、白川義則大将寄贈の天壌無窮の銘ある花瓶、総長が明治天皇御聖像に奉献された靖広作の神剣や師の御霊が陳列されたほか尾竹竹坡画伯の風俗画、大理石でできた西園寺公の肖像などが飾られていた。竣工式前日に西園寺公望から送られた「南天」、「山梔子」各30株ずつが会館玄関脇などに植樹された。立命館大学 フレッシュアイペディアより)

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    立命館大学から見た足利義量

    現在の「衣笠キャンパス」周辺は、金閣寺、龍安寺、仁和寺、等持院などが点在する京都屈指の観光名所として知られる。キャンパス北側にはこれら名刹を結ぶ観光道路「きぬかけの路」が通る。中でも隣接する等持院の墓地には、室町幕府将軍の足利尊氏、足利義量および足利義勝、映画監督の牧野省三や衣笠貞之助、画家・山元春挙、木島桜谷、役者・尾上松之助、学園創立者・中川小十郎が眠っている。立命館大学 フレッシュアイペディアより)

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    立命館大学から見た佐々木惣一

    1936年(昭和11年) - 初代中川会館(広小路)竣工。佐々木惣一が名誉学長に推薦される。立命館大学 フレッシュアイペディアより)

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