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快楽亭ブラック (2代目)から見た立川談志
立川談志の命により、2代目快楽亭ブラックを襲名するまで、16回の改名をしたことでも知られている。しかし、借金が元で落語立川流Aコースを自主退会(破門はまぬがれている)離婚(2回)を経験しており、娘と息子がいる。(快楽亭ブラック (2代目) フレッシュアイペディアより)
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オギヤハギから見た立川談志
結成6年目に第1回大会で関東組では唯一決勝進出したが、「歌手になりたい」という新ネタを矢作曰く「魔が差し」て本番で披露した。審査員は不可思議に受け取っていた。1000点満点のところ全10組中で9位DonDokoDonの614点に次ぎ540点で最下位であった。一般審査員は大阪9/100点、札幌22/100点、福岡12/100点、で本人たちも低評価に失笑した。DonDokoDonも大阪の一般審査は18点と低評価であった。仮に一般審査がなければおぎやはぎ9位(497 / 700点)、DonDokoDon8位(520点)で、最下位はチュートリアルになっていた。この一般審査は、“関東芸人”を不当に低く評価したと公平性を疑問視する意見が見られたことから、翌年より一般審査員制度は廃止された。第2回大会決勝では第4位と健闘し、審査員の立川談志に絶賛された(詳しくは後述)。(オギヤハギ フレッシュアイペディアより)
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桂文楽 (8代目)から見た立川談志
いずれも8代目文楽の妻(当時)・寿江の希望によるが本人たちが希望せず取りやめとなった。7代目立川談志(当時は二つ目で柳家小ゑん)のケースでは夫婦養子でもいいと言われたが「それでなくとも生意気なのに黒門町の養子になったら師匠の5代目柳家小さんに『おいモリ公』などど言いかねない」と周囲の反対も強かった。6代目柳亭左楽の場合は直接話をされたわけではなかったが、寿江が6代目柳亭左楽(当時は二つ目で桂文平)と寿江の姪を結婚させて夫婦養子にしようと考えていた矢先に6代目柳亭左楽が現夫人と結婚する旨を報告したため話自体が無くなった。(桂文楽 (8代目) フレッシュアイペディアより)
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北村銀太郎から見た立川談志
北村が選ぶ昭和期の大御所の順位は文楽(黒門町)、志ん生、三代目三遊亭金馬、圓生で、特に黒門町の首位はゆるぎないもので、「芸と人間性の両面に秀でた噺家」と評価。圓生は「芸のレベルまで人間が行つていたら、明治の大圓朝以来の噺家」と評する。下の世代のうち、俗に「落語四天王」の面々では志ん朝が何より筆頭で、立川談志と圓楽は「自分を作っている」と一枚下であったが、さらに踏み込むと、談志は入りの良くない池袋演芸場に頻繁に顔を出す点は評価しながらも「歪んだ感じで進んでゆくことからは免れ得ない」、圓楽に至ってはテレビで見た『真景累ヶ淵・豊志賀の死』での仕草が滅茶苦茶なのを見て「何年たつたつて圓生さんの域には達しさうにないよ」と斬って捨てた。残る五代目月の家円鏡は扱いが少ないが、「懸命に勉強し出したから偉いよ」。(北村銀太郎 フレッシュアイペディアより)
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桂文字助 (4代目)から見た立川談志
7代目立川談志の総領弟子であるが、師匠・6代目三升家小勝死去による移籍(1971年)のため、最初に談志に入門したのではない。そのため、実質的な談志一門の総領弟子は最初に談志に入門した10代目土橋亭里う馬であり、談志没後の落語立川流代表には里う馬が就任している。(桂文字助 (4代目) フレッシュアイペディアより)