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林家彦六から見た立川談志
若い頃は、学があり理屈っぽいことから噺家仲間から「インテリ」「新人」(学生運動団体の新人会から)と呼ばれ、「菜ッ葉服(労働服)をきて共産党とつきあっている」と陰口を叩かれた。実際に日本共産党の熱烈な支持者として知られるが、イデオロギーに共感した訳ではなく、本人談によれば「あたしゃ判官贔屓」あるいは「共産党は書生っぽいから好きなんですよ。」とのことであった。自身が贔屓にしている共産党金子満広などに、参院議員時代の7代目立川談志が侮辱的な野次を飛ばして辞職後も場外で続けていたことを快く思っておらず、会えばしょっちゅう喧嘩になっていたという、いかにも通称「トンガリ」らしいエピソードがある。その一方で談志については、選挙活動を手伝ったり、「自殺するのではないか」という危惧を親しい知人にしばしば漏らしていた。なお、談志本人も自殺願望があったことを後に認めている。詳細は立川談志の項を参照。(林家彦六 フレッシュアイペディアより)
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スピードワゴンから見た立川談志
仕事がない日が続いていた時に転機となったのは後述の2002年M-1グランプリ決勝戦への敗者復活枠での出場。これを機に名前が知られるようになり、注目度も高まった。本人たち曰く、M-1決勝出場前の月給は3000円だったが、出場後はテレビ出演が増えたため一気に100倍の額になったという。この頃の打合せの際、井戸田が「来年から忙しくなるよ」と小沢に言ったというエピソードがあり、その言葉通りこの大会を境にテレビ出演も増え、知名度も上がった。同年の大会では立川談志に「俺、下ネタ嫌いなんです」とネタを酷評されたが、中田カウスと島田洋七には「後半の畳み掛けがよかった」と評価されている。そして2003年のM-1グランプリでは準決勝を勝ち抜き、敗者復活でない決勝進出を果たした(そのため、キャッチフレーズが『正門突破』だった)が、その際に披露したネタは童謡(しかも『サッちゃん』や『グリーングリーン』といった都市伝説があるものばかりだった)をネタにしたものであったためDVDでは大部分がカットされており、場合によってはネタ自体が収録されていない。翌年には「爆笑オンエアバトル」(NHK)で第6回チャンピオン大会ファイナル2位、勝率0.750、オンエア率15/20でゴールドバトラーの称号を与えられており、同番組の黄金時代を支えた芸人の1組でもある。ちなみに当番組のオフエア最高得点(461KB)という珍記録の持ち主でもあり、この記録は番組終了まで破られなかった。(スピードワゴン フレッシュアイペディアより)
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春風亭柳朝 (5代目)から見た立川談志
1960年代はテレビ、ラジオでも顔を売り、7代目(自称5代目)立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目三遊亭圓楽と共に「落語若手四天王」と呼ばれた。(春風亭柳朝 (5代目) フレッシュアイペディアより)
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三遊亭圓楽 (6代目)から見た立川談志
円楽一門が落語協会にいた時代から落語家であるが、実は1990年頃、落語立川流に非落語家の著名人枠(立川流Bコース)に入門していたことがある。あくまで円楽一門会所属の落語家である故に、プロ落語家として落語家団体の二重加盟を避けたためであると思われるが、7代目(5代目)立川談志との交流関係を伺わせるエピソードである。(三遊亭圓楽 (6代目) フレッシュアイペディアより)