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  • 高橋氏

    高橋氏から見た筑後国筑後国

    筑後国北部の御原郡の国人一族が高橋氏を名乗る。初め大蔵党の一派。のちに豊後大友氏の一族出身の高橋鑑種や高橋鎮種(紹運)が家督を継いだ。筑後十五城の一つ。前段で詳述。高橋氏 フレッシュアイペディアより)

  • 筑後川

    筑後川から見た筑後国筑後国

    筑後川は明治以前筑前国・筑後国・肥前国・豊後国の境界をなしており、軍事上の要衝として活用されていた。このため江戸時代は橋を架けることが厳禁とされ、代用交通として水運が発達(後述)し昭和後期まで利用されていた。モータリゼーションが高度に発達した現在、流域は九州地方を縦貫・横断する道路と鉄道が交差する地域となっており、今もなお交通の要衝になっている。筑後川 フレッシュアイペディアより)

  • 九州国分

    九州国分から見た筑後国筑後国

    天正13年(1585年)10月2日、豊臣秀吉は島津・大友両氏に九州停戦令を発した。大友氏は停戦令をすぐに受諾したのに対し、島津氏は激論の末受諾を決定するとともに、鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、戦争は大友氏に対する防戦であると弁明させた。天正14年(1586年)3月7日、鎌田政近が大坂城において秀吉より提示された国分案では肥後半国・豊前半国・筑後を大友へ返還し、肥前を毛利氏に与え、筑前は秀吉の所領とすることになっており、島津氏を挑発する意図が読み取れる。一方、4月5日には救援を求めるため大坂城で秀吉に面会した大友義鎮(宗麟)も国分案を提示されているが、内容の詳細は伝わっていない。また、6月25日頃に比定される秀吉朱印状では毛利輝元宛で九州国分案が提示されており、それは、秀吉が毛利所領から備中・伯耆の一部と備後・伊予を召し上げ、代わって九州の豊前・筑前・筑後・肥後の4カ国を与えた上で九州取次に任命する内容となっている。九州国分 フレッシュアイペディアより)

  • 宇都宮氏

    宇都宮氏から見た筑後国筑後国

    また宇都宮庶流としては、筑後国に勢威を張った筑後宇都宮氏が知られる。宇都宮氏第8代(宇都宮朝綱を初代とすれば第6代)当主宇都宮貞綱(元寇の時に討伐軍総大将)とともに九州に同行し、筑後国山門郡大木を拠点とした貞綱の弟である宇都宮泰宗の子孫が直接の始祖である。すなわち、泰宗の子の宇都宮貞泰は、南北朝時代に四国伊予国に勢力を保ち、南朝の懐良親王と共に城井氏の拠点の豊前国仲津に移ったが、北朝方の豊前宇都宮氏に対して、南朝方で肥後国八代に移った宇都宮貞泰の次男の宇都宮貞久が始まりとされる。この貞久の孫の宇都宮久憲が筑後十五城筆頭の宇都宮氏系蒲池氏の祖となる。宇都宮氏 フレッシュアイペディアより)

  • 高良大社

    高良大社から見た筑後国筑後国

    高良大社(こうらたいしゃ)は、福岡県久留米市の高良山にある神社。式内社(名神大社)、筑後国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。高良大社 フレッシュアイペディアより)

  • 良成親王

    良成親王から見た筑後国筑後国

    天授2年/永和2年(1376年)夏に親王は菊池賀々丸(後に武興・武朝)に奉じられて肥前国府(佐賀市)へ出陣。幕府方の今川了俊の軍と対陣するが交戦には至らず、この間阿蘇氏に令旨を発給して危急に備えている。両軍はそのまま年を越し、天授3年/永和3年(1377年)1月国府近くの千布・蜷打で一戦を交えた(肥前蜷打の戦い)。親王を奉じる菊池軍は一族を率いて奮闘するが、結局大敗を喫して多数の戦死者を出すに終わり、征西府の退勢がいよいよ明らかとなった。戦禍を免れた親王と賀々丸は筑後を経て隈部城に退却したが、今川軍はこれを追撃して肥後に侵入、さらに8月の鎮西合戦勝利に乗じて城の攻略を画策した。天授4年/永和4年(1378年)9月親王は武興に奉じられて託麻原(熊本市東部)で再び今川軍と一戦を交える(託麻原の合戦)。菊池軍は一時苦戦して武興も負傷する程であったが、親王自ら陣頭に立って敵陣に奮闘した結果、遂に今川軍を敗走させることに成功した。もっともこれは南朝方が勝利を収めた最後の大戦となり、征西府の威勢も長くは続かなかった。良成親王 フレッシュアイペディアより)

  • 蒲池氏

    蒲池氏から見た筑後国筑後国

    蒲池(かまち)氏は、鎌倉時代以来の筑後国の一族。鎌倉時代は地頭職、室町時代は大身の国人領主、戦国時代は筑後十五城の旗頭の大名分で柳川城主であった。蒲池氏 フレッシュアイペディアより)

  • 元寇

    元寇から見た筑後国筑後国

    ところが、薩摩や日向、大隅など南九州の御家人たちは大宰府に向かうに際して、九州一の難所と言われる筑後川の神代浮橋を渡らなければならず、元軍の上陸までに大宰府に到着することは難しかった。これに対して、筑後の神代良忠は一計を案じて神代浮橋の通行の便を図り、南九州の諸軍を速やかに博多に動員した。後に神代良忠は、元軍を撃退するのに貢献したとして幕府から感状を与えられている。元寇 フレッシュアイペディアより)

  • 龍造寺氏

    龍造寺氏から見た筑後国筑後国

    生き残った龍造寺家兼は筑後の蒲池鑑盛の元に逃れ、鑑盛の保護を受ける。蒲池氏の援助を受けて家兼は再起をはかると、1546年、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興した。同年、93歳の高齢で家兼が死去し、曾孫の龍造寺隆信が後を継いだ。隆信もまた一族の内紛で肥前を追われて筑後に逃げ、家兼と同じく蒲池鑑盛の厚い保護を受ける。約2年にもわたる蒲池氏の支援により龍造寺隆信は生き延びることが出来、また再起出来たのである。龍造寺氏 フレッシュアイペディアより)

  • 蒲池鑑盛

    蒲池鑑盛から見た筑後国筑後国

    蒲池 鑑盛(かまち あきもり)は、戦国時代の筑後国南部の大名。蒲池氏十六代目。蒲池鑑久の子。諱の「鑑」の字は、父同様に大友義鑑から賜ったもの。法名は宗雪(そうせつ)。蒲池鑑盛 フレッシュアイペディアより)

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