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西日本旅客鉄道米子支社から見た美保飛行場
2008年(平成20年)6月15日:美保飛行場(米子空港)拡張による境線の経路変更に伴い、大篠津駅が移転し米子空港駅に、御崎口駅が大篠津町駅に改称。(西日本旅客鉄道米子支社 フレッシュアイペディアより)
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あいち航空ミュージアムから見た美保基地
YS-11 - 航空自衛隊YS-11P(52-1152)、2017年5月28日の美保基地航空祭で展示飛行後、翌29日に小牧基地へ最終飛行(あいち航空ミュージアム フレッシュアイペディアより)
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T-1 (航空機・アメリカ)から見た美保基地
日本の航空自衛隊でも、輸送機・救難機などの乗員を教育する次期多発機乗員訓練機(TC-X)として、ビーチジェット400AをT-400として採用、1994年(平成6年)から13機を導入した。全機が美保基地の第3輸送航空隊第41教育飛行隊に配備されている。(T-1 (航空機・アメリカ) フレッシュアイペディアより)
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中村勝治から見た美保飛行場
大正8年(1919年)10月福井県丹生郡越前町に父壁伍吉の次男として生まれた。昭和15年(1940年)6月現役兵として舞鶴海兵団入団。新兵教育の後軍艦利根に乗組み東シナ海方面に出動する。昭和16年(1941年)3月横須賀海軍航空隊に航空機整備技術練習生として入隊。6ヶ月の教育終了後同航空隊に整備兵として軍務に従事するも11月南方へ出発、サイパン島を通過した辺りで大東亜戦争の開戦を知る。マーシャル群島ヤール島到着、水上飛行機の整備に従事する。昭和19年(1944年)3月厚木飛行場にて高等科整備術練習生として教育を受ける。6月横須賀海軍航空隊転属。11月鹿児島海軍航空隊転属。昭和20年(1945年)3月美保航空隊転属。美保基地に勤務の後美保航空自衛隊に入隊、昭和45年(1970年)3月退官。その後同隊に職員として勤務、昭和55年(1980年)3月定年退職をなす。(中村勝治 フレッシュアイペディアより)
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日本エアシステム機事故から見た美保飛行場
1988年1月10日、東亜国内航空670便YS-11型機 (JA8662) が米子空港を離陸滑走中、凍結により昇降舵が適切に働かなくなり、離陸中止を試みるもオーバーランして滑走路端の中海に突入。乗員乗客52人のうち8人が軽傷を負った。修理可能であったが、諸般の事情で現地で解体処分された。ただし同機のコックピット部分は、川崎市の電車とバスの博物館内で展示されている。機体部分は、鳥取市にて集会所として利用されている。(日本エアシステム機事故 フレッシュアイペディアより)