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小柴貯油施設から見た厚木海軍飛行場
所在地は金沢区柴町、長浜、幸浦二丁目、並木三丁目にまたがる。陸上部の面積は526,205m2で、そのうち国有地511,859m2(97.3%)、市有地4,746m2(0.9%)、民有地は9,600m2(1.8%)を占める。制限水域は約470,000m2で、このうち後述のBバース跡のの点を中心とする半径365.5メートルの円周によって囲まれる水域約420,000m2は未返還であり、浚渫や底引き網は制限される。陸上部には地下タンク29基と地上タンク5基があり、地下タンクは直径37?38m・高さ28?29mの大型タンク11基、直径18m・高さ20?21mの中型タンク14基、10×18×6.5mのスペースに2基ずつ納められた小型タンク計4基。1981年に爆発火災を起こした6号タンクは、大型のタイプである。地上タンクは直径23m・高さ11mのものが4基と、直径15m・高さ9mのものが1基ある。このうち小型地下タンク4基と直径15mの地上タンクは東側の低地、残りは丘陵部に配置されていた。地下タンクの内空体積の合計は458,781m3であった。シーバースは、金沢区東部の海上に北東に向かうAバース・南東に向かうBバースの2か所あり、海底および長浜水路沿いのパイプラインで陸上部につながっていた。Aバースで大型タンカーから航空燃料を陸揚げし、Bバースで小型タンカーに積み込み鶴見区安善町の鶴見貯油施設に移送し、さらに横田飛行場・厚木海軍飛行場・立川飛行場に陸送するものであったが、金沢地先埋立事業に支障するため、1975年にBバース側に集約された。現在は横須賀市の吾妻島に所在する吾妻倉庫地区から鶴見貯油施設に航空燃料が輸送される。(小柴貯油施設 フレッシュアイペディアより)
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カーツ (フリゲート)から見た厚木海軍飛行場
1988年6月1日、カーツはロングビーチから横須賀に母港を変更した。この時、カーツを含めた2隻のミサイルフリゲートが海外の前線部隊に配属されているが、ミサイルフリゲートが海外の前線部隊に配属されるのは初めてのことだった。カーツと僚艦は、横須賀への配属時、併せてLAMPS MK IIIを搭載したSH-60B シーホーク対潜ヘリコプターを厚木の航空基地に配属するため輸送する任務を負っていた。(カーツ (フリゲート) フレッシュアイペディアより)
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三布告から見た厚木海軍飛行場
館山は連合軍進駐に伴う日本軍諸部隊の第一次撤退地域の中にあった。8月22日5時発表の大本営及帝国政府発表でも、警察や海軍保安隊など治安維持のための人員を残して撤収することが明記されていた。連合軍先遣隊の進駐は8月26日から、先遣隊のうち沿岸水域を占領する部隊の進駐は1日早い8月25日からそれぞれ予定されていたが、折から襲来した台風によって2日順延となった。2日後の8月28日から厚木飛行場を手始めに先遣隊が日本に進駐を開始し、同じ8月28日に「アメリカ第8軍の一部が9月1日に館山航空基地に上陸して占領を行う」ことを日本側に通告した。8月30日、館山では基地周辺の一般住民に退去を通告した上で、房総西線那古船形駅以南と房総東線安房鴨川駅以南を運転休止にし、上陸してくるアメリカ第8軍を無事に迎え入れる準備を終えた。(三布告 フレッシュアイペディアより)
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メガフロートから見た厚木飛行場
初期の事例としては1982年、厚木飛行場において米空母艦載機が夜間離着陸訓練(NLP,Night Landing Practice)を開始し、そのことで周辺住民より騒音被害の苦情が相次いだことから、対策としてメガフロートの活用が提案された。具体的には当時防衛庁長官だった伊藤宗一郎が定期防衛首脳会談のため、1982年9月に訪米した際、国防長官のキャスパー・ワインバーガーに提示したという。当時はまだメガフロートと言う言葉は一般的ではなく、新聞は「浮き滑走路」などと報じている。当時、米側は厚木や分散訓練先になっていた三沢飛行場などの代わりに新たな訓練地を希望しており、それに応えたものであった。(メガフロート フレッシュアイペディアより)